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薬の歴史
 
長崎薬学史の研究
 
ホーム薬の歴史長崎薬学史の研究第一章近代薬学の到来期>2.出島三学者(ケンペル、ツェンベリー、シーボルト)

第一章 近代薬学の到来期

2 出島三学者(ケンペル、ツェンベリー、シーボルト)
 江戸時代、薬学と医学の間に明確な境界が無く、薬学は医学の一部としてとらえられていた。また、江戸時代以前から、外科的治療法がヨーロッパから伝えられてはいたが、当時の多くの治療が薬物によるものであり、使われていた薬物は、末期に輸入されていたキニーネなどを除き、ほとんどすべて天然の薬草(あるいはその抽出物)、動物、鉱物であった。したがって当時の薬学について論ずる際、薬草や鉱物の種類の同定などを主たる目的とする本草学が対象となる。江戸時代は、蘭学者自身、漢方医学を知っていなければ蘭学塾に入門できなかった時代だけに、一般の薬学書にみえる内容は漢方薬に対する理解をそのまま踏襲したものであった。鎖国であったために、ヨーロッパの書籍中にある薬草あるいはその代用となるものがはたして日本にもあるのか、どのようにして使うのかということは当時の日本の本草学者にとって最も重要なことで、多くの本草学者が出島商館医などからその情報を得ようと躍起になっていて、その勉学意欲は商館医を驚かせるほどであった。そのようなことからシーボルトが来日したころの日本の本草学(薬草などの植物学・薬物学・博物学)は、当時のヨーロッパの植物学を十分理解できるまでに発展しており、日本の植物学者の優秀さについては後にシーボルトの手紙にも記載されている。実際、シーボルトが日本に来て最初の論文が「日本における本草学の状態について」であり、他でもことあるごとに日本の植物学の水準の高さを指摘している。シーボルトが日本で多大な業績を残せた一つの要因は、他の商館医にくらべて滞在期間が長かったことに加え、当時の本草学のレベルの高さも挙げられると思われる。以下、出島三学者として名高いケンペル、ツェンベリー、シーボルトと薬草との関わりを概説する。

1789年頃の小島郷薬園
1789年頃の小島郷薬園
土仲、楓、梔子、艾、唐竹、肉桂、人参、淫羊カク、
天門冬、川キュウ、使君子などの文字が見える。
長崎県教育委員会「長崎とオランダ」より

 長崎には教会に附属した南蛮医学時代の薬草園があったが、鎖国後はしだいに漢方薬草園になっていた。1690年に来日したケンペルは、出島に薬草園を作っている。彼は出島の3学者の一人で、日本の植物について調査し、後のツェンベリーやシーボルトに影響を与えるが、リンネにより植物命名法が確立される以前の研究であるため、彼の業績は他の二人に比べ目立たない。彼の遺稿から編まれた「日本誌」はヨーロッパで多大の反響を呼んだと言う。彼は日本の灸をヨーロッパに紹介したことでも知られる。

 1775年に来日したツェンベリーは、わずか1年しか日本に滞在しなかったにもかかわらず、長崎の植物300種、箱根の植物62種、江戸の植物43種など、合計812種の植物標本を採取し、帰国後「日本植物誌」を著わした。それには21種の新種が収載されている。トリカブト、カワラヨモギ、オケラ、スイカズラ、ゲンノショウコなど、日本の薬用植物の分類も彼の功績によるものが多い。ツェンベリーの影響を受けた医師のうち、著名なオランダ通詞でもあった吉雄耕牛は洋薬を主体に用いていたが、彼は薬局方の原著(1618年ロンドン薬局方、アムステルダム薬局方か)を持っていたと推定されている。長崎のオランダ通詞たちは、単なる通訳として西洋の最新情報を幕府に伝えていたのではなく、医師や教育者として極めて重要な役割を果たしたのであり、当時の長崎における西洋文化流入の過程で最も貢献した人物たちとして認識されるべきである。
C.P.ツェンベリー
C.P.ツェンベリー
「出島」より

 


安政頃の出島 安政頃の出島
安政頃の出島。植物園の場所は入り口の左側。

「E.ケンペル、C.P.ツェンベリーよ、見られよ!君たちの植物がここに来る年毎に緑そい、咲き出でて、そが植えたる主を忍びては、めでたき花の鬘をなしつつあるを!V.シーボルト」(呉秀三博士訳による)

 後にシーボルトは、ケンペルとツェンベリーの功績をたたえ出島植物園の中央に記念碑を立てており(上図)、それは出島跡地に現存する。その植物園は、1823-1824年にかけてシーボルトにより再建されたもので出島の1/4近くを占めるものであった。シーボルトの書簡(1825年)によると出島の植物園には、日本の1、000種以上の植物が移植されている。植えられていた植物については約370種のリストが残されている(下図)。その中にはケシ、ナデシコ、アサガホ、イレイセン、キキャウ、クララ、センゴシツ、、ソテツ、ワタ、チゴザサ、イシカグマ、シモクシダ、ハシリドコロ、クロムメモドキ、バイケイサウ、コケモモ、アシタバ、ハマナシ、、ガジュツ、キャウオウ、ヤマサンシャウ、キハダ、ニガキ、マタタビ、カギカヅラ、タケニグサ、テウセンアザミ、トサミズキ、チモ、ハマビシ、ザクロサウ、フジウツギ、レンゲシャウマ、ブナノキ、シイーノキ、タチアヲイ などや、春の七草のセリ、ナズナ、コギャウ、タビラコ、ホトケノザ、スズナ、スズシロが記載されている。

1789年頃の小島郷薬園
Siebold「Botanices Fasc. no. 3. Plantarum Japonicum nomina indigena」
にある出島栽培植物リストの冒頭部分
東洋文庫、長崎県立図書館蔵

 この植物園はヨーロッパに生きた植物を送り出すために、また、質の高い標本を作成するために設けられたもので、ハマナスのような北の方にしかない植物の立派な標本がライデン大学に残っているのは、おそらく種子から出島で栽培したものではないかと推測されている。彼の関心は純粋学問としての植物学としてよりも、実用的なものに関心があったようで、当然多くの薬草も植栽されていた。彼はヨーロッパに東洋の生薬を導入することも考えていたと言われ、実際シーボルトは1825年には茶の木をジャワに移植することに成功した。1830年に帰国する時には500種800株の植物を積み込んだが、オランダに届いたときには大半が駄目になっており、ヨーロッパに移植が成功したもので1844年に生き残っていたのは204品種であった。シーボルト自身が導入したものはその内129種とされている。シーボルトが作成した販売カタログには、バイカイカリソウ、イカリソウ、トリカブト、ショウブ、シャクヤク、ヌルデ、サルトリイバラ、チャ、ツバキ、ガガイモ、ツルボ、シキミ、サネカズラ、ネズミモチ、カノコユリ、エビネ、シュンランなどが見られる。
 さらに、塚原らの調査によると、オランダ、ライデンのNtional Museum of Ethnologyにはシーボルト収集の生薬類標本152種が保存されている。それは植物性和漢薬53種、動物性33種、鉱物性16種、調合薬5種、食品5種、茶(製品)31種、および同定できないもの9種からなるもので、使君子、香附子、射干、五倍子、紫草、蒲黄、常山、細辛、昆布、マクリ、ハンミャウ、反鼻、亀板、ボウシャウ、鐵粉等がある(表記はラベルの通り)。

 シーボルトは、長崎の鳴滝に別荘を作ることを許可された際、最初から薬草園を附設する計画で設計しており、鳴滝塾が完成すると同時に、小高い台地の方に多数の薬草類と観賞用樹木を栽培し、家の周囲には、塾生が各地から蒐集した植物を植えた。彼は自ら薬草を処理して製薬し,門人たちにも指導したとされている。ただ、彼が鳴瀧に来るのは週に一度であり、ここでの植物とのふれあいはそう多くはなかったようである。
 シーボルトは江戸参府(大体3カ月位を要したようである)の際に、多くの植物についての質問を受けている。ツェンベリーとともに日本の植物学に偉大な足跡を残したシーボルトであるが、こんな逸話も残されている。大槻玄沢はカナダ人参(広東人参)について質問したところ、シーボルトとビュールヘルはただ「Panax」としか答えてくれなかったとされている。軽くあしらわれた玄沢は、その書「広参発蒙」にその時のことを述べているが、シーボルトの名は出さず、「医官某」とだけ書いている。また、尾張の本草学者・水谷豊文は毒草ハシリドコロについて質問し、シーボルトは「これはベラドンナだ」と答えている。後に江戸で、治療技術においてシーボルトを驚かすほどの眼科医・土生玄碩が、葵の紋服と交換にベラドンナを受け取った際、この植物は日本にもあると言って、江戸に来る途中で尾張の本草学者がこの植物の名前を聞いてきたことを教える。土生玄碩は喜んで尾張からその植物を取り寄せ確かに効果があることを確認する。これがハシリドコロがベラドンナに代用された最初だと言われている。このときシーボルトに贈った葵の紋服がもとで土生玄碩は後に厳罰に処せられることとなる(シーボルト事件)。
 ライデン大学にはハシリドコロの標本があるが、それはビュールガー(シーボルトの助手として日本に来日した最初の薬剤師。シーボルトの後任となる)によるものでシーボルトのものではない。しかもそのラベルにはAtropa belladonna ???(ベラドンナ???)と記載されている。一方、1828年に出島で栽培されていた植物リストにはハシリドコロがあるが、このリストは、ハシリドコロを含めてほとんどがカタカナ表記でラテン名は記載されていない(シーボルトはカタカナや一部の漢字は書くことが出来た。リストの一部は門人の伊東圭介による)。シーボルトは頭からハシリドコロをベラドンナと決めつけていたのかも知れない。このような逸話は、シーボルトは本来医者であり、ツェンベリーのような純然たる植物学者ではなかったことによるものである。 
 シーボルト来日の本来の目的は、当時のオランダにとって、最も重要な貿易相手国である日本の文化や動植物などに関する情報を集めることであった。彼は、彼のもとに集まる優秀な人材に情報提供する一方でそれぞれにテーマを与え、それについてオランダ語でレポートを書かせることを一つの情報収集の手段としていた。彼が結果的に残した功績を考慮すると、これは理想的なGive and Takeであったように思える。

その他、以下の資料も参考にされたい。
 
1.出島に栽培されていた植物(詳細)
2.シーボルトが来日時に持って来た薬
3.シーボルトの治療薬「十八道薬剤」
4.シーボルトの点眼薬
5.シーボルトによる日本民間薬の調査
6.シーボルト処方箋の再現

鳴滝塾 鳴滝塾


参考文献: 長崎県教育委員会「長崎とオランダ」(1990年)
中西 啓「長崎のオランダ医たち」岩波新書(1975年)、
長崎市教育委員会「出島」[写真:出島](1998年)
山口隆男「シーボルトと日本の植物学」Calanus, Special Number 1:, 239-410 (1997)
山田重人「シーボルトと長崎の植物」シーボルト記念館鳴瀧紀要、pp44-54、1992年第2号
日本学士院編「明治前日本薬物学史」、第一巻、日本古医学資料センター
宗田 一「渡来薬の文化史」八坂書房(1993年)
小池楮一「図説日本の医の歴史、上、通詞編」大空社(1993年)
Siebold「Botanices Fasc. no. 3. Plantarum Japonicum nomina indigena」、東洋文庫、長崎県立図書館蔵
T. TSUKAHARA and M. OSAWA, "On the Siebold Collection of crude drugs and related materials from Japan", Bulletin of Tokyo Gakugei University, Sect. IV, Vol. 41, pp.41-97 (1989).
   
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