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薬の歴史
 
長崎薬学史の研究
 
ホーム薬の歴史長崎薬学史の研究第一章近代薬学の到来期>3.日本最初の近代的薬剤師:ビュルガー

第一章 近代薬学の到来期

3 日本最初の近代的薬剤師:ビュルガー
1789年頃の小島郷薬園
シーボルト・プロジェクトの最も重要な協力者

   ビュルガーの生い立ち
 シーボルトと異なり、ハインリッヒ・ビュルガー(Heinrich Burger: 1806-1858)の背景には不明な点が多かった。生年が1806年であることがいくつかの研究から 明らかにされたのもつい最近のことである。  彼はドイツ・ハーメルンのユダヤ人家庭の7番目の子供として生まれ、ごく短期間ゲッチンゲン大学で数学と天文学を学んでいる。1821年に数学、1822年には天文学のエンロールメントが確認されている。その後彼は、アムステルダムから蘭領東インドのジャワへ渡り、1823年にはバタヴィア近郊ウェルテフレーデの軍の病院の見習い薬剤師となっている。
 ビュルガーの学歴については、その他にも不明な点が多いのだが、この時に薬学に関する徒弟的な教育を受けたものと考えられる。これはヨーロッパでの正規の制度的な医学・薬学教育による資格と言いうるものではないと考えられる。
 このことを考えるのに、近年注目を集めている、植民地における科学的活動につい ての歴史研究を参照する必要があるだろう。いわゆる植民地的な環境では有能な即戦力の養成が望まれていた。有能なユダヤ人青年がこの期間に薬学を実地で学んだとしても、何の不思議もないだろう。1825年に、彼は3等薬剤師に昇進しているという記録が残っている。 彼が昇進したこの1825年に、シーボルトが要請した助手の一人として、ビュルガーは画家フィレネーフ(Carl Hubert de Villeneuve: 1800-1874) とともに日本へ赴いている。ビュルガーは出島のオランダ商館付き医師フォン・シーボルトの下での「薬剤師」として来日した。


   日本最初の医薬分業
 「日本最初の近代的な医師」をとりあえずシーボルトとするならば、さしずめビュルガーは「日本最初の近代的薬剤師」となるだろう。また、ビュルガーの日本への到来は、日本での「医薬分業」の最初の例として考えられる。従来から多くの医師が出島を訪れているが、「専門的」で「職業的」な「薬剤師」をともなったのは、シーボルトまでは皆無である。いうまでもなく、ビュルガーは、最初の薬剤師であり、近代的医薬分業の観点から見て画期的であったと言える。
シーボルト使用の薬籠
シーボルト使用の薬籠
長崎県立美術館蔵
 それまでの日本の医療は医学と薬学がほぼ完全に融合し、伝承的手法と経験的により医師が自ら薬を調合していた。安土桃山時代にポルトガルとの交易から伝わった南蛮医学もまた「前近代」医学に範疇できるといえる。なぜなら、外科については、南蛮医学の先進性は認められるが、内科的な医学および薬学について南蛮医学のなかで紹介されたのは、ヨーロッパでの錬金術的な製薬学の段階であると考えられるからである。 シーボルトやビュルガーの時代になり、ヨーロッパにおいて科学と医療との発展が見られ、とりわけ薬剤師制度・薬局方が普及した。この近代的医療が二人によってもたらされたと言える。
 出島での医療に、いわゆる『バタビア局方』と呼ばれる、蘭領東インドの都市局方書が使用されていた。当時、蘭領東インド、バタヴィア(もしくはバタビア:現在のジャカルタ)にはVOCのマークで示される東インド会社が置かれオランダの極東へ重要な拠点であった。蘭領東インドは、オランダとは気候・風土ともに全く異なる南方であり、また風土病の地とされていたことから、オランダ人が東インドでは熱帯病に冒されるケースが後を断たなかった。19世紀になっても、オランダを出国した商人・船員のうち、2割程度が健康のうちに帰還できなかったというデーターもある。オランダの東インド進出に際して、熱帯医療の研究は不可欠のことであった。そのために、オランダ人による、熱帯医療の研究は、非常に進んでいた。


   シーボルトの最も重要な協力者
 ビュルガーについては、フォン・シーボルトの助手ということ以外には、従来あまり知られてきていない。そもそも「薬剤師」という資格でシーボルトの下に派遣された彼の業績については、シーボルトの影に隠れていた。 シーボルトおよびビュルガーの収集による日本産生薬とそれに関連するコレクションの調査、日本産岩石・鉱物、および関連する化石・有用金属の精練過程の中間生成物などのコレクションに関する調査:日本での気象観測記録の調査。などにより、シーボルトの有能な研究協力者としてのビュルガーの実像が徐々に明らかになりつつある。
 その後の彼の活躍ぶりは、まさにシーボルトの右腕と呼べるものである。彼がシーボルトに付き従い、その調査・研究活動をよく助けた様子は、1826年の江戸参府の日記などに散見される。 薬剤師しての彼の本分はそもそも医療用の薬品の製造・管理などにあった。その面でシーボルトを補佐したことはいうまでもない。日本産の薬品などの収集についても彼の貢献が認められる。岩石・鉱物についてのコレクションについては、前述したが、ライデンに残る多くのコレクションから、ビュルガーの貢献ぶりが判る。薬物のコレクションの中にも無機鉱物など、薬品として使われるものが含まれているが、このコレクショは体系的な地質調査の一環であると考えられ、総合的な日本の自然誌研究の一部をなすものであるという位置づけができる。

 


   シーボルト帰国後も継続して調査
 これらがシーボルトによる日本の博物学的研究の重要な一環をなしていたことはいうまでもない。シーボルトが出島を追放された後も残り、博物学の標本を送り続けたのもこのビュルガーである。
鉱物の研究のなかでも特に有用鉱物、なかでも銅の鉱石については、日本からの重要な輸出産品であったということからも、多くのコレクションをしている。でもある。
 日本におけるシーボルトの博物学研究のなかで、ビュルガーが鉱物学・地質学的な調査・収集活動の多くの部分を担っていた。ライデン国立地質学・鉱物学博物館(現在は自然誌博物館の地質学・鉱物学部門)には、シーボルト・コレクションの一環として、かなり系統だった、数多くの日本産の鉱物標本が保存されている。これは、西欧近代地質学的な観点から見る、日本初の本格的な地質・鉱物のコレクションとも言えるものであり、貴重なものである。このコレクションの収集・整理に実際に現地であたっていたのが、主にビュルガーであった。
 また日本に残っている例として、シーボルトの江戸滞在中は、旗本の博物学者設楽芝陽からの依頼でシーボルトとともにいわゆる「本草」の鑑定をおこない、化石を含む鉱物については彼が解答を与えている。このときの記録は「シーボルトの草木鑑定書、附ヒルヘル薬石解答」(ヒルヘルはビュルガーのこと)として知られている。さらにドイツ・ボッフムのルール大学に移管されたシーボルトに関する文書の中にある未刊の「日本地質鉱物誌」の草稿はビュルガーによって記載されたものである。このように、シーボルトの自然誌研究プロジェクトのなかで、ビュルガーの地質学・鉱物学への貢献が高い。
 鉱物、特に有用鉱物としての銅の精練に関する調査・研究については、シーボルトとともに、江戸参府の帰途、大阪鰻谷の住友の精銅所を訪れたあと、ビュルガーは個人名で、バタヴィア学芸協会雑誌に日本での銅の製造についての論文を送っている。


ビユルガーによる鉱物のメモ、
日向(上)や島原(右)の地名が見られる。

-棹銅のコレクションと住友へ寄ったときの記録-


   九州各地の温泉水の化学分析
 九州各地、とりわけ長崎周辺の温泉水の科学分析は、シーボルトの『日本』のなかでも散見されるが、このオリジナルの手稿はビュルガーによるものである。ビュルガーによる温泉水の分析は、試薬を順次加える方法で温泉水に含まれる各々の化学物質を特定してゆくものであり、近代的な化学分析法が見て取れるものである。
ビュルガーによる雲仙温泉の分析 薬学に動機づけられて、基礎科学、特に化学が日本に導入されてきたということは、ビュルガーの事例をみてもわかる。シーボルトが鳴滝塾での医学教育のなかで化学的観点を導入したこと、そして高野長英などが化学に特に深い興味を示したことは知られている。しかしシーボルトが行った化学的活動は、ビュルガーの手によるものが多い。長崎では高野長英、江戸参府のおりの宇田川榕菴との交流などが知られている。  薬学から発展して、ビュルガーの貢献はさらに2つの領域で特に認められる。一つは鉱物学・地質学の領域、もう一つは化学に関する領域である。科学史的にみるならば、前者はいわゆる万有学的な博物学が、植物学・動物学そして鉱物学と専門として行く方向をあらわし、後者はその対象とするもの自身をより精密に、すなわち化学的に分析して行く方向性をあらわしているといえる。
 分類学的な発展もここでは見られることに注意すべきである。シーボルトとビュルガーによる日本産岩石鉱物のコレクションについて、ビュルガーは分類・整理を行っており、これらを研究した痕跡が見られるが、それらのノート・ラベルの類から、ビュルガーの採用した鉱物の命名法は、リンネ式の二名法の発展したものであることが指摘できる。下の写真にあるように、2名法の上に記されたドイツ語のものは、ドイツ流の鉱物学者ウェルナーの分類によるもの、いわゆるウェネリアン的鉱物学にのっとったものであり、下に記されたフランス語でのものは、フランスの結晶学者、ルネ・アユイによる命名法によるものである。この時代にはまだ分子レベル・原子レベルという発想、および定量的な物質の構成要素の発想はなく、「元素(エレメント:element)」レベルでの定性的な分析による、質的(Qualitative)な、実験的分類である。
  彼らの科学の世界的な拡大に果たした役割、さらに日本での科学の展開に彼が果たした役割はシーボルト同様に大きい。したがって、単にビユルガーを「シーボルトの薬剤師」もしくは「助手」としてだけとらえるのはフェアではないだろう。彼のことを「日本で薬学の可能性を展開したシーボルトの研究協力者」とでも呼べば少しは公正かもしれない。近年の科学史では、研究の総体をプロジェクトとして見て行くこと、その上で全体として評価して行くことが提唱されている。その意味でシーボルトは、オリジナルな自然科学研究者というよりも有能なプロジェクト・マネージャーとしてより高く評価されるかもしれない。そしてビュルガーは、シーボルト・プロジェクトの最も重要なスタッフとして見直されるのだろう。
商人としての後半生
 このように活躍したビュルガーであったが、シーボルトとの関係は、必ずしもよかったとは限らなかったことがさまざまに指摘されている。事の経緯は若干複雑ではあるが、シーボルトがビュルガーの業績を一人占めしたようなかたちとなったことによるのであろう。
 蘭領東インドに帰還してから、いくつかの科学的プロジェクトに関わっていることが知られており、ビュルガーによるパダン高地の探検レポートは、バタビア学芸協会雑誌に掲載されている。しかし、ビュルガーが参加した探検プロジェクトのP.W. コルトハルス 探検隊長の報告によると、蘭領東インドの科学者とはうまくいかなかったようである。
 ビユルガーは科学者としてのキャリアを断念し商人として成功する。東南アジア貿易での海上保険の先駈けをなす会社を運営するまでになる。この時、日本で作った資本を元にして、この事業を起こしたものと考えられる。家族を蘭領東インドに呼び寄せる。蘭領東インドでは、名家をなすにいたる。現在でも、その家系は継続している。
 エピソードは散在している。『鼓銅図録』を広東へもたらし、イギリス人と日本の銅の生産・精練について議論したとある。また、イギリスのミッショナリーの報告に、このことが、ビュルガーの名前入りで論じられている。また、1840年-43年に、ヨーロッパに一旦帰還してたビュルガーが詩人のハインリッヒ・ハイネと出会っており、ハイネを喜ばすような会話を交わしたということ、それをハイネの筆により1854に書かれ シーボルトの名前も言及されている。
 薬剤師ビュルガーがシーボルトの日本研究の中で動物学や植物学ではなく、鉱物学を担当し、化学的分析法でおこなったことは、その後の日本の薬学の方向を考える上で非常に興味深い。後述するように化学者ハラタマが長崎養生所や舎密局で教鞭をとり、明治に入り東京医学校に製薬学科が最初に作られ、戦前戦後を通じ日本の薬学教育が化学を主に置かれてきたが、その原点と見ることができる。一方で、医薬分業がもたらされながら、現在に至るも十分に根づいていないことは残念なことである。

 なお、ビユルガーの功績を讚えてライデン自然史博物館のデ・ハーンはキリギリスの学名にbuergeri(ラテン語でビユルガーの意味)をつけています。
   
長崎大学