Siebold「Botanices Fasc. no. 3. Plantarum Japonicum nomina indigena」
にある出島栽培植物リストの冒頭部分
東洋文庫、長崎県立図書館蔵
この植物園はヨーロッパに生きた植物を送り出すために、また、質の高い標本を作成するために設けられたもので、ハマナスのような北の方にしかない植物の立派な標本がライデン大学に残っているのは、おそらく種子から出島で栽培したものではないかと推測されている。彼の関心は純粋学問としての植物学としてよりも、実用的なものに関心があったようで、当然多くの薬草も植栽されていた。彼はヨーロッパに東洋の生薬を導入することも考えていたと言われ、実際シーボルトは1825年には茶の木をジャワに移植することに成功した。1830年に帰国する時には500種800株の植物を積み込んだが、オランダに届いたときには大半が駄目になっており、ヨーロッパに移植が成功したもので1844年に生き残っていたのは204品種であった。シーボルト自身が導入したものはその内129種とされている。シーボルトが作成した販売カタログには、バイカイカリソウ、イカリソウ、トリカブト、ショウブ、シャクヤク、ヌルデ、サルトリイバラ、チャ、ツバキ、ガガイモ、ツルボ、シキミ、サネカズラ、ネズミモチ、カノコユリ、エビネ、シュンランなどが見られる。
さらに、塚原らの調査によると、オランダ、ライデンのNtional Museum of Ethnologyにはシーボルト収集の生薬類標本152種が保存されている。それは植物性和漢薬53種、動物性33種、鉱物性16種、調合薬5種、食品5種、茶(製品)31種、および同定できないもの9種からなるもので、使君子、香附子、射干、五倍子、紫草、蒲黄、常山、細辛、昆布、マクリ、ハンミャウ、反鼻、亀板、ボウシャウ、鐵粉等がある(表記はラベルの通り)。
シーボルトは、長崎の鳴滝に別荘を作ることを許可された際、最初から薬草園を附設する計画で設計しており、鳴滝塾が完成すると同時に、小高い台地の方に多数の薬草類と観賞用樹木を栽培し、家の周囲には、塾生が各地から蒐集した植物を植えた。彼は自ら薬草を処理して製薬し,門人たちにも指導したとされている。ただ、彼が鳴瀧に来るのは週に一度であり、ここでの植物とのふれあいはそう多くはなかったようである。
シーボルトは江戸参府(大体3カ月位を要したようである)の際に、多くの植物についての質問を受けている。ツェンベリーとともに日本の植物学に偉大な足跡を残したシーボルトであるが、こんな逸話も残されている。大槻玄沢はカナダ人参(広東人参)について質問したところ、シーボルトとビュールヘルはただ「Panax」としか答えてくれなかったとされている。軽くあしらわれた玄沢は、その書「広参発蒙」にその時のことを述べているが、シーボルトの名は出さず、「医官某」とだけ書いている。また、尾張の本草学者・水谷豊文は毒草ハシリドコロについて質問し、シーボルトは「これはベラドンナだ」と答えている。後に江戸で、治療技術においてシーボルトを驚かすほどの眼科医・土生玄碩が、葵の紋服と交換にベラドンナを受け取った際、この植物は日本にもあると言って、江戸に来る途中で尾張の本草学者がこの植物の名前を聞いてきたことを教える。土生玄碩は喜んで尾張からその植物を取り寄せ確かに効果があることを確認する。これがハシリドコロがベラドンナに代用された最初だと言われている。このときシーボルトに贈った葵の紋服がもとで土生玄碩は後に厳罰に処せられることとなる(シーボルト事件)。
ライデン大学にはハシリドコロの標本があるが、それはビュールガー(シーボルトの助手として日本に来日した最初の薬剤師。シーボルトの後任となる)によるものでシーボルトのものではない。しかもそのラベルにはAtropa belladonna ???(ベラドンナ???)と記載されている。一方、1828年に出島で栽培されていた植物リストにはハシリドコロがあるが、このリストは、ハシリドコロを含めてほとんどがカタカナ表記でラテン名は記載されていない(シーボルトはカタカナや一部の漢字は書くことが出来た。リストの一部は門人の伊東圭介による)。シーボルトは頭からハシリドコロをベラドンナと決めつけていたのかも知れない。このような逸話は、シーボルトは本来医者であり、ツェンベリーのような純然たる植物学者ではなかったことによるものである。
シーボルト来日の本来の目的は、当時のオランダにとって、最も重要な貿易相手国である日本の文化や動植物などに関する情報を集めることであった。彼は、彼のもとに集まる優秀な人材に情報提供する一方でそれぞれにテーマを与え、それについてオランダ語でレポートを書かせることを一つの情報収集の手段としていた。彼が結果的に残した功績を考慮すると、これは理想的なGive and Takeであったように思える。
長崎県教育委員会「長崎とオランダ」(1990年)
中西 啓「長崎のオランダ医たち」岩波新書(1975年)、
長崎市教育委員会「出島」[写真:出島](1998年)
山口隆男「シーボルトと日本の植物学」Calanus, Special Number 1:, 239-410 (1997)
山田重人「シーボルトと長崎の植物」シーボルト記念館鳴瀧紀要、pp44-54、1992年第2号
日本学士院編「明治前日本薬物学史」、第一巻、日本古医学資料センター
宗田 一「渡来薬の文化史」八坂書房(1993年)
小池楮一「図説日本の医の歴史、上、通詞編」大空社(1993年)
Siebold「Botanices Fasc. no. 3. Plantarum Japonicum nomina indigena」、東洋文庫、長崎県立図書館蔵
T. TSUKAHARA and M. OSAWA, "On the Siebold Collection of crude drugs and related materials from Japan", Bulletin of Tokyo Gakugei University, Sect. IV, Vol. 41, pp.41-97 (1989).