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薬の歴史
 
長崎薬学史の研究
 
ホーム薬の歴史長崎薬学史の研究第一章近代薬学の到来期>1.江戸末期の疫病

第一章 近代薬学の到来期

1 江戸末期の疫病
出島
 19世紀、日本はもとよりヨーロッパでも現在の抗生物質のような優れた医薬品があったわけではなく、現在と比べて伝染病が病気の大きな割合を占めていた。特に三大慢性伝染病とされる梅毒、肺結核、ハンセン氏病(癩病)とコレラなどの急性伝染病が猛威を振るっていた。

(1) 梅毒はスピロヘータの感染により引き起こされる性病で、もともと南アメリカからスペイン人によりヨーロッパに持ち込まれ、インド東南アジアを経由して16世紀はじめに日本に広まった。1910年(明治43年)エールリッヒと秦佐八郎により化学療法薬のサルバルサンが見いだされるまで、世界中で数百万の人々の人生を蹂躙し、徳川家康の息子二人もこれを患い命を落としている。当時、梅毒の治療薬としては山帰来(サンキライ)[別名:土茯苓(ドブクリョウ)]が広く用いられた。江戸時代、多くの薬が中国から長崎に輸入されていたが、最も多く輸入されたのが山帰来である。1754年(宝暦4年)にはおよそ四百トンが輸入され、これはその年の中国船による輸入薬物の46%に当たる。この量は九十万人以上の患者一ヶ月分の用量に当たると推測されている。山帰来は当時アジアからヨーロッパに輸出されており、シーボルトが梅毒に用いたと思われる処方箋にも山帰来の記載がある。
 
(2) 肺結核は結核菌により引き起こされる病気で、以前は日本の死亡原因の第一位を占める不治の病であった。江戸時代の人口三千万人の八割が過労と貧困にあえいでいたことを考えると、当時の罹病者は少なくとも百万人を下らなかったろうと推測されている。日本では滋養強壮などを目的とした処方が用いられたが、ヨーロッパでも鶏卵や牛乳による食事療法、解熱薬、去痰薬などによる治療がなされただけで、日本と大差なかったようである。わが国の肺結核治療は昭和に入ってからも江戸時代とさして違いはなかったが、抗生物質ストレプトマイシンが使われるようになる昭和44年頃から患者数は激減した。しかし結核は現在も根絶されていないどころか、世界的にはむしろ増加傾向にある。日本でも最近罹患率低下傾向が鈍化し、年間約 3000人の死者が出ているほか、複数の薬に耐性をもち、治療が困難な多剤耐性結核は、現在1500〜2000人が発病、年間約80人が新たに発病しているとされている。また、集団感染の発生数が3年で4倍に急増するなど、緊急的な対応が迫られている。
 
(3) ハンセン氏病(癩病)は古代から世界的にはびこっていた病気である。二十世紀になっていくつかの化学療法薬が見いだされ患者は激減したが、現在も推定患者数は世界に五百万人を越えるとされる(WHO 1992年)。江戸時代、治療薬として大風子(ダイフウシ)が多く用いられ、中国船により輸入されていた。輸入量から、日本に当時五十万人前後の患者がいただろうと推測されている。シーボルト事件3年後の1831年(天保2年)には長崎に約28トン輸入されているが、この薬の帳簿上の輸入量には増減があり、かなり密貿易されていたようである。
 
(4) チフス、コレラなどの急性伝染病が江戸時代には猛威を振るったが、世界に開かれた長崎は当然ながら疫病の侵入地でもあった。1817年(文化14年)に長崎では腸チフスが猛威を振るった。また、1822年(文政5年)には長崎に入ったコレラがたちまち大阪まで広がり、大阪での死者は日に三〜四百人だったと言われる。この年はシーボルトが初めて来日した前年にあたるが、彼が二度目に来日する前年1858年(安政5年)にもコレラが長崎に上陸し、九州、大阪、京都、江戸に広がった。江戸では50日間に四万人以上が死んだと記録され、薩摩大名の島津斉彬もコレラで命を落としている。この二回目の大流行の時、長崎で西洋医学を講じていたポンペ(彼の講義は今日の長崎大学医学部のおこりとされている)は、コレラ患者にキニーネとアヘンの製剤を与えたと記録されていて、19世紀初頭、ヨーロッパで植物から抽出分離された医薬品類が当時日本でも既に使われ始めていたことがうかがえる。
 
(5) その他の急性伝染病としては1819年(文政2年)に江戸で大流行した赤痢や、ビタミン類などの不足していた当時は大病であった麻疹(はしか)がある。天然痘は命に関わるほどの大病ではないと考えられていたが、時々大流行があり多くの人を苦しめた。シーボルトは1823年(文政6年)出島に上陸してすぐにジェンナーにより開発された牛痘法を日本の子供に実施しているが、残念ながら長い航海の間に痘苗が腐敗していたため失敗している。日本で種痘が成功するのは1849年(嘉永2年)にバタビアから長崎に届いた天然痘のかさぶたを用いたのが最初である。
このように、シーボルトが来た19世紀初め頃の日本における病気の主役は当然ながら現在のものとは大きく異なっていたが、それらの多くがヨーロッパやアジアのものと共通していたという点では、現代の癌やエイズなどと共通するものがあるかも知れない。今も昔も、洋の東西の医者は共通の病気に立ち向かっていたのである。19世紀までにオランダ人によってもたらされた西洋医学の知識は日本の多くの医者たちに多大な影響を与え、特に1774年(安永3年)に「解体新書」が刊行されてからは西洋の合理的な医学が日本に深い根を伸ばしていった。しかし当時のヨーロッパ医療でも、薬の主流は世界中から集められた薬用植物や鉱物であり、それらを用いた治療法は必ずしもすべてが東洋のものより優れていたとは言えないかも知れない。ただ、シーボルトが散瞳薬ベラドンナで日本の医者たちを驚かせたように、鎖国の日本よりレベルが高かったことは確かである。薬用植物由来のキニーネ、モルヒネ、アトロピンなどの化合物が分離されて医薬品として応用され、日本において西洋医学の優位性が不動のものとなるのは明治になってからである。
 
その他、以下の項目も参考に・・・・・
 
1.400年前のできごと(家康とリーフデ号漂着)
2.オランダ船がもたらしたもの(オランダ貿易の薬と植物)
3.長崎警護と佐賀藩の科学振興
 
参考文献: 山脇悌二郎 著 近世日本の医薬文化 ミイラ・アヘン・コーヒー 平凡社
富士川 游 著 日本疾病史 平凡社
小川鼎三 著  医学の歴史 中央公論社
   
長崎大学