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オランダ船(長崎オランダ村) |
1581年にスペインから独立したオランダは、イギリスと共に”新天地東洋”との貿易に活路を見いだそうとしていた。
1598年オランダから5隻の船隊が東洋に派遣され、1599年4月に南米マゼラン海峡の到着したが、南太平洋にさしかかったとき、大嵐に遭遇した。かろうじて残ったリーフデ号とホープ号の2隻は1599年11月にサンタマリア島(チリ)を日本に向かって出発。しかし太平洋上で暴風雨に遭遇し、ホープ号は行方不明とった。
1600年4月19日にリーフデ号は、豊後、臼杵の佐志生に漂着した。その時の生存者はわずか20人余りであったと言われる。長崎のイエズス会の宣教師は「オランダ人は海賊」として、国外追放を進言したが、「関ヶ原」を目前にした家康は、リーフデ号の船長を呼び寄せ、その代理として大阪に来たウイリアム・アダムズ(イギリス人、後の三浦按針)から、オランダとイギリスが日本との交易を望んでいることを知る。
1609年、ウイリアム・アダムズや平戸領主・松平鎮信の呼びかけに応じて到着したオランダ人は、家康からほぼ無制限な自由貿易を保証される。イギリスも数年後に同様の許可を得る。ポルトガルは「オランダ人は海賊」と中傷し、オランダやイギリスは、当時日本とヨーロッパとの貿易をほぼ独占していたポルトガルを「宗教を武器に日本侵略を企図している」と提訴した。オランダは当時ヨーロッパでの国力もなく、オランダ船による海賊行為は事実であったが、幕府は、海外での国家間の争いよりも、宗教にからむ主権侵害をおそれたのである。この年、オランダは平戸に商館を設立。家康は関東近辺を望んだが、中国との交易も視野に入れていたオランダは平戸を選択した。
1613年 |
全国禁教令。イギリスも平戸に商館設立。 |
1616年 |
ヨーロッパ人の交易地を長崎と平戸に限定。 |
1623年 |
イギリスは平戸の商館を閉鎖。当時のイギリスは、東アジアでは常にオランダに遅れを取って、圧迫されていた。 |
1636年 |
長崎に出島完成。ポルトガル人を出島に移す。 |
1637年 |
島原の乱。 |
1639年 |
ポルトガル貿易禁絶。 |
1641年 |
平戸のオランダ商館を出島に移す。以後、1859年の開国まで出島が国家の唯一の窓口となる。
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