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長崎薬学史の研究
 
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長崎警護と佐賀藩の科学振興

 江戸時代、長崎は幕府直轄の天領であったが、その警護には佐賀藩と福岡藩が交代であたっていた。警護はそれなりの負担であったが、逆に捨てがたい魅力も持っていた。特に佐賀藩の役人や商人は、長崎でかなりはばを利かせていたようで、国外の情報を独自のルートで得ることができた。
 種痘は、ジェンナーが発表した数年後には既に日本で知られていたが、実技はシーボルトによって初めて伝えられた。その時は成功しなかったが、牛痘法をシーボルトに直接教わった長崎在住の佐賀藩医・楢林宗建が1849年に日本で初めて種痘に成功している。楢林家は代々オランダ通詞であり、オランダ国王の親書や、オランダ風説書(オランダ船来港時に幕府が国外の最新情報を書かせたもの)の内容をいち早く知り得る立場にあったことから、楢林宗建はそれを聞き出して佐賀藩に伝えていたと言われる。また、蘭書などの密輸にも係わっていたという。佐賀藩の鍋島直正は、江戸末期に時代を先取りした科学技術振興をしたことで知られるが、彼にそれができたのも一つは、このように国外の情報を独自に一早く得ることができたからである。

トンメス分析表
トンメス分析表
(野中烏犀圓 蔵)

 トンメス分析表(上の写真)は、鍋島直正により嘉永4年(1851年)に設立された精錬方(火器製造に必要な硝酸、硫酸、塩酸などの化学薬品製造や、技術振興のための化学的基礎固めを目的)によりヨーロッパより取り寄せられた、無機定性分析表である。定性反応で各元素の呈色、沈殿の色が事細かに記載されている。沈殿の色は実際の沈殿を塗りつけたものと言われる。

 また、長崎警護をする裏では先進的研究を支える資金源を得るための(密)貿易がされていた。そのような貿易は五島沖で行われたようで、扱われた品物は、量が少なくしかも高価な、人参、ジャコウ、大黄などの薬種や、有田焼などであったとされている。
 
江戸末期に輸出されていた焼き物
江戸末期に輸出されていた焼き物
人形の形をした薬ビン
人形の形をした薬ビン
(野中烏犀圓 蔵)

 佐賀藩用達商であった野中元右衛門(野中烏犀園)も(密)貿易で利益を上げ、その利益はすべて佐賀藩の資金源となった。佐賀藩・鍋島直正はそのようにして集められた資金をもとに日本初の反射炉建設、鋳鉄砲の製造、アームストロング砲の製造、さらには蒸気船建造など、江戸末期に多くの先駆的業績を残すことになる。野中元右衛門は後にその功績が認められ、1867年日本が参加した最初の万博である第2回パリ万国博覧会の佐賀藩派遣使に加えられ渡仏している。

 佐賀藩の展示品としては、有田焼に加え、薬として烏犀圓、五倍子、人参、髪人参、樟脳、食品として煎海鼠、干鮑、鱶鰭、寒天、昆布、鰹節、その他には棕櫚ほうき、煙草、藤細工などが記録されている。

パリ万国博に出席した佐賀藩使節一行
パリ万国博に出席した佐賀藩使節一行
(前列右が野中元右衛門。前列中央は日本赤十字を創設した佐野常民)
写真は 野中萬太郎「佛国行路記」 より


参考文献: 野中萬太郎「佛国行路記」(1936年)
中野禮四郎「鍋島直正公傳・第三編、第四編」(1920年)
中西 啓「長崎のオランダ医たち」岩波新書(1975年)
   
長崎大学