明治27年,勅令および文部省令によって,第五高等中学校から第五高等学校に改称された.さらに,明治34年4月1日,各高等学校医学部は,すべて独立して医学専門学校となった.第五高等学校医学部は長崎医学専門学校となり,スタッフは校長1名,教授13名,助教授7名,書記5名であった.明治27年〜明治28年の日清戦争,明治37年〜明治38年の日露戦争,大正3年〜大正7年の第一次世界大戦と,この時代は3度の戦争を経験し,世界経済や思想などに大きな変化が生じた時でもある.専門学校令が明治36年2月公布され,その後整備されていくが,大正7年9月の改正では,官立医学専門学校規定は,官立医学専門学校の学科を医学科と薬学科とする,修業年限を医学科4年,薬学科3年とする, 薬学科の学科目は修身,ドイツ語,などとするとなっていた.大正6年12月には歌人,斎藤茂吉が長崎医学専門学校教授として赴任した.長崎では大正元年10月のコレラで139名が死亡し,また,大正9年にはインフルエンザが流行して, 328名の死者を記録した.このとき,長崎医学専門学校校長尾長守三も流感のため死亡した. 大正10年11月には長崎市聖徳寺において,「解剖千体祭」が行われた.明治21年以降大正10年までに千体の解屍が行われたことによる. この間、校舎も変遷を遂げた。第五高等中学校薬学科開設以来、もともと特別に独立した校舎はなく、医学科の中で受講していた。校舎が新築された第五高等学校から医学専門学校時代の薬学科は,300坪程度の木造平屋建てであった。大正12年木造2階建ての700坪の新校舎が竣工した。