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薬の歴史
 
長崎薬学史の研究
 
ホーム薬の歴史長崎薬学史の研究第三章近代薬学の定着期>1.日本薬局方の草稿者:ゲールツ

第三章 近代薬学の定着期

1 日本薬局方の草稿者:ゲールツ
 明治初期、日本政府は速やかに近代国家を建設し、強固な国際的地位を確立すべく、欧米先進諸国から各界の専門家を「お雇いさん」として高給をもって雇い入れた。我が国においては、明治3年(1870)にドイツ医学の採用が実行に移されたにもかかわらず、薬学領域ではオランダ系の外国人教師が多く招かれ、日本の薬学の発展に貢献した。この理由としてドイツ人適任者の不足や長い日蘭交易の歴史などが挙げられる。
 明治初期は近代薬学の定着期とも呼べる時期であり、薬事衛生の普及向上、薬品試験業務の開始、日本薬局方草案作成の準備などが進められた。これらの基礎づくりおよび発展に尽力したのが熱意ある外国人教師たちであった。

アントン・ヨハネス・コルネリス・ゲールツ Anton Johannes Cornelis Geerts (1843〜1883)はオランダのオウデンダイクの薬業家に生まれた。成人して陸軍薬剤官となり、ユトレヒトの陸軍医学校で教鞭をとっていたが、薬学に加え、理化学や植物学にも精通する英才であった。
 このゲールツが日本政府の招請により来日したのは明治2年(1869)7月、彼が26歳のときである。彼の着任先は官立長崎医学校(現長崎大学医学部の前身)であり、授業担当は予科の物理、化学、幾何学等だった。当時長崎医学校は学制改革が行われたばかりで学頭は長與専斎が務め、オランダ人医師マンスフェルト C.G. Van Monsvelt が教頭と付属病院医師を兼ねて指導にあたっていた。
 長與専斎は明治4年(1871)、欧米医事制度の視察に岩倉大使一行とともに欧米に出向いた。明治6年に帰国した彼は、その年文部省の医務総裁(のちに文部省医務局は内務省衛生局となる)に就任し、医制取調を命ぜられた。これがわが国の衛生業務の発端である。こうして長與専斎は公衆衛生事業の普及に努めることになったが、緊急に対策が迫られている事項の一つに悪徳外国人商人による粗悪薬品の輸入防止があった。
 一方、明治6年(1873)にゲールツは長崎税関の委嘱により輸入キニーネの分析を行い、その鑑定報告に添えて粗悪な輸入薬品の取締りと薬品試験所の必要性を建議した。長與専斎はこの進言をとりあげ、薬品検査機関として司薬場が設置されることとなった。明治7年(1874)3月には東京日本橋馬喰町に司薬場が初めて開設され、永松東海を場長、ドイツ人マルチン Georg Martin を監督として薬品試験業務を開始した。これが我が国における薬品取締りの発端であり、以後の薬学の発展にもこの司薬場の開設は大きな影響を与えた。

 ゲールツは明治8年(1875)2月に設置された京都司薬場に任用された。そこでの彼の任務は薬品試験監督と、同じ構内にあった京都舎密局と合同で薬学講習を行うことであった。これは前年に公布された「医制」においてその施行が規定された新しい薬鋪開業試験(薬剤師試験の前例)に備えてのことであった。なお、京都司薬場は薬業の中心地である大阪の司薬場に近いこともあって1年余りで廃止された。代わりに日蘭貿易以来の実績をもつ長崎と新しい開港場として発展した横浜に司薬場が設置されることになった。ゲールツは横浜司薬場の開設の任にあたり、明治10年(1877)5月に業務を開始した。その後、明治10〜12年に日本全土でコレラが大流行した際には、長與衛生局長を助け防疫対策を実行し、伝染病予防規則の制定を促すなど今日の衛生行政の基礎を確立した。
 ゲールツは理化学の教育に努めるかたわら、日本の鉱物資源にも興味を示し、精力的に試料の採取を行った。この研究の結果を集大成したものがフランス語による「新撰本草綱目」鉱物之部で、明治11年には第1篇、明治16年には第2篇が出版された。第3篇は残念ながら未刊に終わっている。また、各地の温泉を訪ね、温泉の分析調査も行い、「日本温泉考」(明治13年)なども著わしている。その他、彼の活動の対象は種痘、飲料水、食用植物、気象等にも及んだ。

 このように日本の薬事行政、保健衛生の発展に大きく貢献したゲールツであるが、明治16年(1883)8月30日急性の病により横浜の地で40年の生涯を閉じた。現在も彼は長崎出身のきわ婦人とともに横浜の外人墓地に眠っている。彼の多大なる助力を得て今日の薬事行政の基礎を築いた長與専斎は自伝「松香私志」のなかでゲールツにふれて次のように記している。「(途中省略)ゲールツ氏もまた勤勉の士にして、本邦における理化学最始の教授に任じ、よく困難の職責を尽くしたが、後に司薬場の教師として長崎、京都、横浜に歴任し、本邦にあること十五年、理化学・薬学の発達はこの人の力に資ること多かりき。氏は元来敏捷の人にして検疫消毒の方法、薬局方の編纂等、衛生局の事業にも参画の功少なかざらりしに惜しいかな明治十五年横浜にて病歿せり。」ここで述べられている薬局方編纂に関しては以下に述べる。
 司薬場での主業務は薬品試験である。しかし、当時薬品の基準となる日本薬局方は存在しなかったために、基準の異なる外国の薬局方を用いることによる混乱が予想された。例えばヨード鉄舎利別は、仏国局方を基準にして製造するとそのヨード鉄含量は0.5%であるが、英独局方は5%、蘭局方は20%の比率と大きな効力差が生じた。
 明治8年(1875)、長與衛生局長は日本薬局方の必要性から、京都司薬場監督のゲールツに日本薬局方草案作成の内命を与え、局方制定のための準備を進めた。ゲールツは同じオランダ人で大阪司薬場教師のドワルス B. W. Dwars と協力して第1版オランダ薬局方(1851年刊)を参考に、草案をまとめていった。この草案の特色は生薬名を漢字で自筆したことや、西洋生薬と成分・薬効が類似する日本産生薬を代用薬として解説したことなどである。また、収載薬品は604品目におよび、製剤総則8項目、付表17種、索引などで構成されていた。

 明治10年(1877)、このオランダ語の草案は完成し、長與局長に提出された。しかし、明治政府がドイツ医学を採用したことや、明治4年から6年にかけて、オランダ薬局方第2版、ドイツ局方第1版およびアメリカ局方第5版などが刊行されたことから、最終的な採用には至らなかった。彼は死の直前まで日本薬局方編纂へ力を注ぎ、病没後は後述するエイクマンの尽力により明治19年(1886)6月25日「日本薬局方」の初版が公布された。


根本曽代子、“薬学ゆかりの外国人(4) ゲールツ Anton Johannes Cornelis Geerts”、ケミカルタイムス、関東化学株式会社、1981、pp 1830- 1831 より引用
   
長崎大学