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長崎薬学史の研究
 
ホーム薬の歴史長崎薬学史の研究第三章近代薬学の定着期>4.医療・衛生行政制度の創始者:長与専斎

第三章 近代薬学の定着期

4 医療・衛生行政制度の創始者:長与専斎
 徳川幕府の終焉後明治政府が成立して近代日本が始まる頃、日本の医学・医療制度を確立し、衛生という言葉を初めて医学に使用した長与専斎について紹介する。

   1. 専斎は長崎・大村出身
 長与専斎は数代漢方医として大村藩に仕えた家系で医学の素養が育つ環境に生まれている。専斎の父中庵は大村藩の侍医で、漢方を当時江戸幕医の最高権力者多紀元堅楽春法印に学んでいる。この楽春法印はシーボルトの高弟伊藤玄朴が幕府御典医になるまで幕医として権勢を誇り漢方医の地位を死守しようとした人物である。多紀元堅が「傷寒論述義」を著したとき協力している。その後蘭学に転向し、コンスブリュクの「病学通論」(緒方洪庵の「病学通論」は1849年に刊行されている)を訳述している。祖父俊達は、若いときから医術の才に恵まれ30才前後で大村藩中はおろか近隣近在までもその名は聞こえ、門前には診察を乞う人々で溢れる程の名医であった。しかしながら名声と富を得た漢方医学に満足することなく40才になって、長崎ならともかく非常に保守的な田舎の大村で当時国禁の蘭学を志している。自宅の小屋に牛を飼い痘苗を作ろうとするが失敗している。しかしその二年後の1849年(嘉永2年)にバタビアから取り寄せたモーニケ( Otto Monike)の牛痘苗を大村藩に広める事に成功している。この時の最初の実験台が長与専斎であった。その後父中庵が早逝(35才,1840年)したため専斎9才の時俊達の養子となり長与家の嫡子に決まる。専斎は3才で大村藩五教館で漢学の修業を初め、その後16才で祖父の勧めにより緒方洪庵の適塾(適々塾)に入門している。


   2. 適塾での経験
 適塾に入門した時の塾頭が伊藤慎蔵で、その後5年近くを敵塾で過ごし1858年福沢諭吉が江戸に出た後塾頭になっている。 ここで緒方洪庵と適塾(適々塾)について若干述べておく。  緒方洪庵は、シーボルトからポンペまでの蘭医学隆盛の時代最も活躍し後世に影響を与えた日本の蘭学者の一人である。彼は備中足守藩(現在の岡山)の出身で、名は章、字は公裁という。15才の時父に従い大阪に出て、17才で中天遊の「思々斎塾」で西洋医学の基礎を学んでいる。22才で江戸の坪井誠軒の門に入り、西洋の薬品・製剤方法・器具などをイロハ順に並べた事典である「遠西医方名物考」や「和蘭薬鏡」を著した当代随一の蘭学者宇田川榛斎に就いて6年間の蘭学修業後、長崎でオランダ人医師ニーマンに3年間蘭医学を学ぶ。その後大阪に帰り、瓦町で開業し、同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開いている。
1845年(弘化2年)、今日史跡、文化財に指定されている過書町(現在地)の適塾に移った。 この時代、医師にとって種痘とコレラをいかに予防し、治療するかが最大の課題であった。洪庵も積極的にこれらに取組み、道修町に除痘館を設けて種痘事業を行ったり、1858年(安政5年)に大阪でコレラが大流行した時「虎狼痢治準」を著しコレラ予防に一役かったりして精力的に動いている。わが国で牛痘苗での種痘が成功するのは、1849年6月蘭館医モーニケがバタビアから取り寄せた牛痘苗で長崎の江戸町の阿蘭陀通詞会所で行った種痘である. この時モーニケは楢林宗建と協議し、小児に接種することを決める。吉雄圭斎・柴田方庵に種痘術を伝授(1849年12月27日までにモーニケが種痘した者は391人に上る)。長崎の小さな村式見村でも種痘が実施されている(代は一軒につき米8勺あて、村中で米1表2斗7升9合を牛痘方に納める)。この痘苗は1849年10月16日には京都の日野鼎哉や大阪の緒方洪庵の除痘館、それに江戸の伊東玄朴にも送られそれぞれの種痘に成功している。このときの洪庵の種痘の記録は「除痘館記録」に残されている。 この適塾の20年間近くで、その後の明治政府や医学・薬学界で活躍する多くの門人を育てた。1862年(文久2年)幕府の強い要請を断わり切れず、幕府の侍医法眼に挙げられ、西洋医学所頭取となる。しかしわずか1年で他界する。彼には「扶氏経験遺訓」「病学通論」「虎狼痢治準」等の著書がある。


   3. 長崎時代(ポンペ、松本良順、ボードウイン、マンスフェルト)
 福沢諭吉の後任として1年間塾頭を勤めた後、洪庵の勧めにより蘭医療実地研修のため長崎のポンペのもとに来る。ポンペの時代になるともう緒方洪庵は蘭書の読み、訳する適塾の様な蘭学は終りで、これからはポンペの時代だと言うことを長与専斎にも言っている。 長与専斎は、長崎にきてポンペや松本良順から、またその後任のボードウイン、マンスフェルトから、これまでの緒方洪庵から学んだ以上に、その後の日本の衛生行政を確立させていく上で多くの影響を受ける。松本良順はポンペに医学を学ぶにあたってオランダの医術・医学の知識ばかりでなく科学的思考課程、思惟の方法までそっくりポンペから学んでいる。「医療の対象は病気そのものである。患者の身分、階級、貧富の差、思想や政治の立場の違いを取り上げてはならない。
医術を出世や金儲けの道具にするものがいるが全く唾棄すべきことである。人は自分のためでなく何よりも公の社会のために生きなければならない」(白い激流より)と当時のオランダの市民意識がポンペをしていわしめている。また予防医学の概念、すなわち現在の公衆衛生、環境衛生的な考え方もこのような背景から出てきている。このような衛生の概念がポンペの長崎医学所の基本姿勢で自然と長与専斎にも受け継がれたものと思われる。当時衛生という言葉はなかったが、その概念はポンペから学ぶ事によってかなり身についている。例えば集団生活をしている新選組本陣で近藤勇に住居、衣服、夜具、飲食、入浴、睡眠、運動、房事といった項目について書いた「養生法」を示している。松本良順はこの時期新選組の西本願寺屯営でその衛生管理を集団的に行う等、予防医学の重要さを強く身を持って体験し生涯この考えを貫いている。ここでの養生とは衛生の意味であり、まだこの時代では衛生学とか公衆衛生といった訳語はできていない。衛生という訳語は出来ていなかったが、この概念の書はいくつかある。それは高野長英と岡研介の「蘭説養生録」、辻恕介の「長生法」、また杉田玄瑞の「健全学」が知られている。明治以前衛生に関する内容を翻訳でなくみずから著述したのは松本良順の「養生法」以外に例はない。ちなみに貝原益軒の「養生訓」は中国の先賢の言葉を中国の医書からまとめたものである。
 専斎は、長崎での学問の仕方が今までのとは大違いで文字章句を穿することよりも平易な言葉や図、記号等で中味を理解させることに主眼がおかれている、と書いている(私香私志)。適塾で5年以上の蘭語の経験があり塾頭の経験のある専斎でも、後では直接ポンペと質疑応答はできたようだが、最初は西慶太郎の通訳の一語一語しか理解できなかったらしい。この当時ポンペのオランダ語を直接理解できたのは松本良順と、語学の天才といわれ戸塚静海と共著で「七新薬」を著わした司馬凌海だけであったろうと言われている。
 司馬凌海は晩年横浜で語学塾春風社を開いたり、幕末官軍の英国人医師ウイリムスの通訳等も行っている。彼はオランダ語はもちろん中国語、ドイツ語、ロシア語、フランス語、英語それにラテン語もでき、読み書きだけでなくあたかも母国語のように流暢に話したと、司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」には書いてある。凌海が奇人変人であったため、長与専斎はほとんど彼のことに触れていないが、ポンペの講義内容をしるためには凌海の講義録は必見で何らかの接触はあったものと推測される。彼はポンペの言葉をそのまま漢文に訳したようで、門人はその漢文を日本語に訳し理解したそうである。彼の奇行ゆえポンペは彼に好意を持たず破門するが時代は彼の語学力を必要とした。
 数奇な運命の巡りあわせか、専斎は、司馬凌海とは同じ佐倉順天堂の佐藤泰然の門人で佐賀藩の医官相良知安と長崎でともに、ポンペの後任ボードウインに師事することになる。この相良知安こそが明治新政府のドイツ医学の導入に心血を注ぎ初代の医務局長になった人物である。薩長藩閥政治の犠牲となり歴史から抹殺され悲惨な生涯を送ることとなる。この後の医務局長が長与専斎で、昭和10年12月に東大医学部構内に知安の汚名挽回の記念碑が建立された時、その式辞を述べたのが長与専斎の次男で東京帝国大学総長の長与又郎であった。相良知安は、明治新政府が政治的配慮からイギリス医学導入を決めようとしていたとき、純粋に学問的立場からドイツ医学導入を強く説いた。この時日本医学総教師として内定していたのが幕末の官軍軍医として活躍したイギリス人医師ウイリアム・ウイリスである。彼は、後で鹿児島に医学校が開設されるにともない校長として破格の高給で赴任している(第1期生高木兼寛、実吉安純ら)。ここに出てくる高木兼寛は、明治政府の海軍軍医を勤め東京慈恵医科大学を創立する。脚気の原因を巡り、患者の治療を重んじ実証主義に徹する高木のイギリス医学の海軍首脳と、学理を重用視する森鴎外のドイツ医学の陸軍首脳との対立が起こる。現代でもおちいる問題である。まず実践や技術が先に来て、理論的な理由づけはそれに従わなければならない。
 一旦、専斎は、1862年に大村藩の侍医に就任したが、藩主大村侯の銃痩事故の蘭方外科による治療のため、再び長崎に行くことを許され、そこでポンペの後任ボードウイン、マンスフェルトに師事している。ボードウインは1862年(文久2年)ポンペの後任として来日した。緒方准準(これよし)、長与専斎、松本ケイ太郎、戸塚静伯、池田謙斎、大槻玄俊ら千人近くが就学し、ボードウインの教えを受けている。ボードウインの建白書によって、長崎養生所に分析究理所が設置され、ハラタマが教授として着任した(1866年、慶応2年)。ここでハラタマは、日本写真の祖上野彦馬の通訳で、化学、物理、製薬技術等を教えている。長井長義は上野彦馬の家に住み込んで、彼から化学実験法を習ったという。その後ハラタマは大阪の舎密局に転勤になる。ボードウインの後任にマンスフェルトが精得館(長崎養生所は1866年に改名した)に着任した。
 1868年(慶応4年)長与専斎は精得館の学頭になり1868年(明治元年)5月選挙で長崎精得館の頭取になり、10月にこの精得館が長崎医学校になるとこの校長に選ばれている。このとき日本で初めて医学教育に、マンスフェルトの勧めもあり現在の医学進学課程に教養部を意味している予科を創設している。マンスフェルトは長崎医学校の整備に専斎と共に大きく貢献し、日本の医学教育制度の確立に多大の功績を残した。その予科教師にオランダ陸軍薬剤官ゲールツを雇っている。ゲールツはここで機何、物理、化学などを教え、明治7年には東京司薬場を、同8年には京都司薬場を指導している。長与専斎はゲールツを、「本邦に於ける理化学最初の教授に任し、能く困難の職責を尽くししが、後に司薬場の教師として長崎、京都、横浜に歴任し、本邦に在ること15年、理化学薬学の発達は此の人の力に資る所多かりき。氏は元来敏シャクの人にして、検疫消毒の方法、薬局方の編纂等衛生局の事業にも参画の功少なからざりしに惜哉明治15年横浜にて病没せり」、のように称えている。


   4. 長崎から東京へ(衛生学の誕生)
 1871年(明治4年)7月に文部省が設置され江藤新平が初代文部卿になり学制の改革が急速に行われた時、専斎は東京に転勤になり、これまで医学の主要な舞台が長崎から東京に移って行くことになる。転勤後、この当時激しかった薩長藩閥政治の混乱に巻き込まれることなく、その後の衛生行政政策の立案に大きく貢献できる貴重な体験となった岩倉具視らの欧米使節団の一行に加っている。
 江戸幕府が諸外国と結んだ修好通商条約は、締結にあたった幕府の当局者が世界の大勢を知らず、外交知識に乏しかったため締結各国に最恵国条款と治外法権とを認め、またわが国に関税自由権のないきわめて不利でかつ国家の自主権を損ずる不平等条約であった。維新政府成立直後も外交に不慣れなため引き続き不平等条約を結んでいる。 維新政府は不平等条約改正を志し、1871年(明治4年)岩倉具視らを欧米諸国に派遣したがほとんど成果を得ず1873年に帰国している。長与専斎にとっても、アメリカではそれほどの収穫も得られなかった。しかしながら、ヨーロッパ、特にドイツでの医療制度および衛生行政の視察の経験は帰国後の医療行政を確立するために大いに活かされた。維新以後欧米文化の進んでいるのに驚いた日本政府と国民は、医療制度も含め、この遅れを取り戻すべく「旧来のろう習を破り」「知識を世界に求め」を国是として政府が先頭にたって積極的に欧米文化の輸入と摂取に勤めた。その結果驚くべき早さで日本の薬学をはじめ医療制度が確立されていった。
 専斎はドイツで池田謙斎、桂太郎、松本ケイ太郎、長井長義らの協力のもと日本の医療行政の基盤である「医制」七十六条の構想を練る。その基本の姿勢が次の文に表わされている。「是れ実に其の本源を医学に資り、理化工学気象統計等の所科を包容して之を政務的に運用し、人生の危害を除き国家の福祉を完うする所以の仕組にして、流行病伝染病の予防は勿論、貧民の救済、土地の清潔、上下水の引用排除、市街家屋の建築方式より薬品染料飲食物の用捨取締に至るまで、凡そ人間生活の利害に繋がれるものは細大となく収拾網羅して一団の行政をなし、「サニテーツウエーセン」「オツフェントリヘ・ヒゲー子」など称して国家行政の重要機関となれるものなりき」。それは、専斎が帰国した年1874年には、衛生行政組織、医事、薬事、公衆衛生のみならず、医学教育について定めた総合法典である医制が公布され、さらに翌年には内務省衛生局が設置されている、事でもわかる。この重要な任務を担ったのが長与専斎である。明治7年3月公布された医制76条の内訳は次のようになっている。その第1ム111条は、全国衛生事務の要領と地方衛生及其史員の配置、第12ム26条は医学教育、第27条ム第53条は医術開業試験とその免許、第54ム76条は薬舗開業試験とその免許及び薬物の取締規定である。
 長与専斎は Hygiene の原語を健康もしくは保健と露骨に直訳しても面白くないので、荘子の庚桑楚篇(こうそうそへん)にある「衛生の経」から字面高雅で音の響も良い衛生という言葉をみつけ、これを健康保護の事務に適用することにし衛生局とした(私香私志)。先の胡蝶の夢によると、欧米視察から帰国後オランダ語のgezondheidsleer(衛生学)の訳語に困っていたところ、薬学と化学に精通し歌学と漢学に素養の深かった明石博高(1839-1910)に出会い、彼が衛生という言葉を造語し、専斎は喜んでこの言葉と内容を広めた、とある。ちなみに Hygiene は健康の女神 Hygieia から Galenus (130-200年)が命名している。  長与専斎は敵塾で洪庵の予防医学の重要性や長崎養生所でのポンペの衛生行政の考えや実地に大きな影響を受けたと思われる。


   5. 初代衛生局長として
 専斎は帰国後(明治6年3月)文部省医務局長に就任し、1875年(明治8年)6月には医務局が内務省に移されると同時に医務局を衛生局と改名しその初代衛生局長に就任している。これから本格的に長与専斎の衛生行政が始まることになる。まず最初に手がけようとしたのが種痘との予防と検梅制度である。ところがこの時コレラが大流行することになりその対策に窮することになる。安政5年の長崎から始まった大流行を経験している専斎は海港検疫の重要性を認識しコレラ予防の諸規則を立案する。 種痘対策をできたばかりの衛生局の最大の仕事として位置付けた。それは1849年モーニケから伝わり佐賀、大阪、京都、東京等全国にと広められていたが、かなり時間が立っているためその効力がおち、新しい牛痘苗が必要になり、ここに特牛を求め接種し痘かを取り出すことに成功した。しかし国の財政改革の必要から種継所は私立衛生会に委託し衛生局長が監督することになる。この種継所は後で官立となる。
 司薬場は贋敗薬(にせ薬)輸入などを取り締まるため最初東京、京都、大阪に設けられたが、後で京都は廃止され、新たに長崎、横浜に設置され、最後は東京、横浜、大阪の3ヵ所になった。これら司薬場の設置にはゲールツが大きな役割をはたす。東京、大阪の司薬場試植園には内外の薬草を植え、その成分・効能をしらべ薬局方制定に役立てようとした。輸入粗悪薬品の検査のための司薬場の設置であったが、検査が甘く、同一の薬でも強弱精粗の度が違い、十分にその機能を発揮できなかった。一方で、専斎は、医学部内に薬学科を設置するなどして薬業社会の意識の改革、制度の改良を促しながら、これらは薬局方がないのが大きな原因と判断し日本薬局方制定のため明治13年10月にその編纂委員会を設けた。以上のような経緯を経て明治19年6月内務省令をもって初めて日本薬局方が発布され、明治20年7月から施行された。
 日本薬局方編集総裁および委員は次のような人々であった。総裁は元老院幹事細川潤次郎、委員は陸軍軍医総監松本順、同軍医監林紀、海軍軍医総監戸塚文海、一等侍医池田謙斎、内務省衛生局長長与専斎、東京大学医学部教授三宅秀、海軍中医監高木兼寛、陸軍二等薬剤正兼二等軍医正永松東海、柴田承桂、東京司薬場教師オランダ人エーキマン、横浜司薬場教師オランダ人ゲールツ、東京大学医学部教師ドイツ人ベルツおよびランガルト、オランダ人ブッケマン。
 このようにして薬局方が準備されていったが、依然として医薬品は輸入にたより取り締まり難しく、日本薬局方に適合したわが国独自の薬品を製造することが必須となり、明治18年衛生局監督の下に国庫援助の大日本製薬会社が開業し、ここから近代製薬業が始ることになる。

薬物雑誌の創刊号
薬物雑誌の創刊号


   6. 医学教育制度の確立
 1874年(明治7年)に教育令が発布されて文部省が刷新されると、先にも出てきたドイツ医学導入に功績のあった相良知安等は医務局長や東京医学校長等を罷免され、新たに長与専斎がこれらの後任に任命された。まず医学校の移転から始まった。最初、藤堂氏の藩邸跡にあった医学校を、相良は現在の上野公園に移転しようと計画したが、この上野境内は歴史上重要でしかも市内有数の景勝地であり首都の第一公園にすべきとのボードウインの意見に従い、現在の加賀藩前田氏跡に移転することを決めた。明治9年(12月)には開校式を行い、1878年(明治11年)には第1期の医学士が誕生している。ここで医学教育は一段落し、専斎は衛生業務に専念すべく校長(このときは校長は綜理となっている)に、先にでたボードウイン時代の同僚池田謙斎を推薦し、専斎は副綜理になっている。
 次に医師の試験制度について述べる。  明治政府の医療制度が確立されるまで、わが国の医師のほとんど(3万人近く)は父子師弟相伝の漢方医で、西洋のことは忌み嫌い、自分達の流派や家伝を頑固に守り、まるで宗教信徒のようであると、専斎はいっている。このような状態のなかで試験を実施するのは困難と思われたが、医務衛生の根本問題であり試験を急いだ。それは1875年(明治8年)2月の事であった。試験科目は物理、化学、解剖、生理、病理、内科、外科及薬剤学であった。今後医師になろうとするものはこの試験に合格し免状を与えられ、今まで開業していた者は試験なしで免状が与えられる、ということが文部省より東京、京都、大阪の3府に達せられた。このときの受験者に落第した者はいなかった。その後いくつかの改革を経て1883年(明治16年)に試験規則を医師免許規則に改めるなどして大体の基礎ができた。このとき中央政府に試験委員を設け、東京、京都、長崎の三地方で春秋に試験が実施された。漢方医からの抵抗は避け難いことであった。
 1886年(明治19年)には、女子としてわが国最初の医籍登録者、荻野吟子が誕生している。荻野は、東京女子師範学校を卒業したあと私立医学校好寿院を終了し、内務省の医術開業試験を受けようとしたところ、受験を拒否され、専斎の尽力で受験が認めらている。
 1900年(明治23年)薬品取締の規則が制定されたころ医薬分業論が起ってくる。このころ処方の調合と劇毒薬品の取扱は薬剤師が、自家患者への薬剤の調整は医師が行っている。 長与専斎には、この他、コレラ対策、水道、下水システムの完備等々、衛生行政に関わる多くの功績があるが省略する。


参考文献: 伴忠康、「適塾と長与専斎」、創元社、1987. この著書から多くの文や事例を引用させてもらった。伴忠康氏に深謝いたします。 犬養道子、「ある歴史の娘」、中央公論社、昭和52年(1977) 小川鼎三、医学の歴史、中公新書、中央公論社、1964 小川鼎三、富士川遊、「日本医学史綱要I,II]、平凡社(東洋文庫)、1974 長崎学会、「長崎洋学史 上」、長崎文献社、昭和41年(1966) 芳賀幸四郎、「日本史新研究」、池田書店、昭和37年 呉秀三、「シーボルト先生 その生涯及び功業」、平凡社(東洋文庫)、昭和42年(1967) 中西啓、「シーボルト前後」、長崎文献社、1989 篠田達明、「白い激流」、新人物往来社、1997 佐藤雅美、「開国」、講談社文庫、1997杉本つとむ、「長崎通詞ものがたり」、創拓社、1990 鶴見俊輔、「高野長英」、朝日新聞社、1985 司馬遼太郎、「胡蝶の夢 1ー5巻」、新潮社、昭和54年(1979)
   
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