HOME Research of History of Nagasaki Pharmacology
CONTENTS
CONTENTS
薬の歴史
 
長崎薬学史の研究
 
ホーム薬の歴史長崎薬学史の研究第三章近代薬学の定着期>3.長崎司薬場とエイクマン

第三章 近代薬学の定着期

3 長崎司薬場とエイクマン
 オランダ人エイクマン Johann Frederik Eijkmann (エーキマンとも呼ばれる)は植物成分研究の有機化学と栄養分析の学術方法を指導することにより、我が国の薬学における新分野の基礎を築いた。
 エイクマンは1851年、オランダのゲルデルランド州ネイケルクウェアに教育者の息子として生まれた。18歳のとき、薬局見習生の試験に合格して、薬局、化学試験所などを経た後、24歳のときライデン大学に入学し、分析化学等を修めた。なお、ビタミンの発見によりノーベル医学賞を受賞(1926年)した医師、C. Eijkmann は彼の弟である。
 明治10年(1877)2月上旬、エイクマンは日本政府の内務省衛生局の招きに応じて来日した。彼の任地は長崎港の地に設立された長崎司薬場であった。長崎司薬場は長崎新橋町幸町(現諏訪町)に所在していた。エイクマンはここを嘱託監督し、彼の指揮のもと薬品試験に必要な機器類、薬品、図書類のすべてが輸入品で整えられ、同年11月開場となった。
 エイクマンは長崎司薬場で薬品試験の実務および指導を2年間行ったのち、明治12年(1879)3月東京司薬場で満期解任となったオランダ人プリュヘ P.C. Pluggy の後任として東京に赴いた。なお、長崎司薬場の場長には明治12年より辻岡精輔、桜井小平太らが就任したが、司薬場の利用価値の漸減により明治14年(1881)に廃止されることとなった。こののちは、長崎県が司薬場の建物および試験設備の使用を引き継ぎ、県民の請願に応じて薬品試験を行う運びとなった。
 東京司薬場(国立医薬品食品衛生研究所の前身)に着任後、エイクマンは国民の栄養改善を目的とする食品分析に着目し、この分野を開拓指導した。明治14年、彼は東京大学医学部製薬学科教師ランガルトA. Langgaard の後任となり製薬学、化学、薬剤学などの教育に尽力した。また、そのかたわら日本産有毒植物の成分研究にも力を注ぎ、多くの業績を残した。

 明治13年(1880)、エイクマンはゲールツ、ランガルト、永松東海らとともに日本薬局方編纂委員に推薦され、ドイツ語草案の作成に携った。特に、ランガルトの帰国およびゲールツの死後は独力でドイツ文稿本の修正を行い、「日本薬局方」の完成に大きく貢献した。日本薬局方草案(日本文、ラテン文、ドイツ文)が完成した明治18年(1885)8月、彼は帰国の途につき、のちにアムステルダムの大学教授に就任した。第1版日本薬局方は明治19年(1866)6月25日に公布され、翌年7月1日施行となった。また、内務省衛生局は明治23年(1890)エイクマンに依頼していた原稿を翻訳し、最初の「日本薬局方註釋」の刊行を行った。
   
長崎大学