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薬の歴史
 
長崎薬学史の研究
 
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第三章 近代薬学の定着期

5 第五高等学校医学部薬学科から長崎大学薬学部まで
   1. 第五高等中学校医学部薬学科として創設
 明治23年6月18日,文部省令第7号によって,各地の医学部に薬学科が設置されたが,長崎の医学部は生徒定員400名が500名に改正され,定員100名をもって薬学科が誕生した.この時をもって,長崎大学薬学部の創立としている.初代の薬学科主任には新制帝国大学薬学科の第1回生として卒業したばかりの5名の薬学士の1人であった池口慶三が招致された.9月には第1回入学試験が行われ,16名の入学が許可された.当時の学期は9月1日から7月10日までの3学期制であり,学科は英語,動植物学,鉱物学,物理学,化学,分析,生薬学,製薬学,調剤学,薬局方,体操であった.小島郷佐古校舎と浦上の附属施療病院(後の長崎県立長崎病院)で受講した。

 明治25年,第五高等中学校医学部の浦上新校舎が落成した.落成式には,辻新次,嘉納治五郎,松本良順ら多くの関係者が参列して祝った.薬学科の第1回卒業式は明治27年3月3日医学科第5回卒業式と同時に行われ,9名が卒業した.同年4月には,村山長之助 教授の引率で武雄温泉の調査を目的とした薬学科3年生の修学旅行が行われた.武雄温泉は炭酸泉であり,成分はクロールカリウム,硫酸カリウム,クロールナトリウム,珪酸ナトリウム,重炭酸ナトリウム,重炭酸カルシウム,重炭酸マグネシウム,重炭酸亜酸化鉄,硫化水素,遊離炭酸であるとの成績を得ている.

 明治27年,勅令および文部省令によって,第五高等中学校から第五高等学校に改称された.さらに,明治34年4月1日,各高等学校医学部は,すべて独立して医学専門学校となった.第五高等学校医学部は長崎医学専門学校となり,スタッフは校長1名,教授13名,助教授7名,書記5名であった.明治27年〜明治28年の日清戦争,明治37年〜明治38年の日露戦争,大正3年〜大正7年の第一次世界大戦と,この時代は3度の戦争を経験し,世界経済や思想などに大きな変化が生じた時でもある.専門学校令が明治36年2月公布され,その後整備されていくが,大正7年9月の改正では,官立医学専門学校規定は,官立医学専門学校の学科を医学科と薬学科とする,修業年限を医学科4年,薬学科3年とする, 薬学科の学科目は修身,ドイツ語,などとするとなっていた.大正6年12月には歌人,斎藤茂吉が長崎医学専門学校教授として赴任した.長崎では大正元年10月のコレラで139名が死亡し,また,大正9年にはインフルエンザが流行して, 328名の死者を記録した.このとき,長崎医学専門学校校長尾長守三も流感のため死亡した. 大正10年11月には長崎市聖徳寺において,「解剖千体祭」が行われた.明治21年以降大正10年までに千体の解屍が行われたことによる. この間、校舎も変遷を遂げた。第五高等中学校薬学科開設以来、もともと特別に独立した校舎はなく、医学科の中で受講していた。校舎が新築された第五高等学校から医学専門学校時代の薬学科は,300坪程度の木造平屋建てであった。大正12年木造2階建ての700坪の新校舎が竣工した。



   2. 長崎医科大学附属薬学専門部(1923〜1951)
 

  大正12年,勅令93号および第142号により,長崎医学専門学校から長崎医科大学へ昇格した.このとき医学科は専門学校から大学に昇格したが,薬学科は昇格することなく専門学校のまま残り,昭和24年まで長崎医科大学附属薬学専門部として継続されることになる.なお、大学令により、薬学専門部の定員は教授7、助教授4となった。
 大正12年長崎県立長崎病院に関する一切が国に寄付され,長崎病院は長崎医科大学附属病院と改称された。薬学専門部では大正14年,川上登喜二主事の尽力で約1000坪の薬草園を設置し、実習室の増設がなった。


薬学専門部時代は日本の軍国時代でもあり,昭和6年には満州事変,昭和7年には上海事件が起こり,昭和12年の日中戦争,昭和14年の第2次世界大戦へとつながっていく.色々な意味で,軍部の政策が文教に強い影響を与えた時代である.そうした時代背景にあって,昭和5年,薬学専門部学友会は,大倉東一教授が編集兼発行人となって,『グビロ』なる名称の学友会雑誌を創刊した.薬学専門部のあった裏山は「グビロが丘」と呼ばれ,学生の憩いの場所であった.創刊号は小沢敏夫助教授の「シーボルトの江戸滞在」という文献の訳文が掲載されていた.昭和15年の第11号が最後の発行となったが,これはグビロ以前に発行されていた学友会雑誌から数えると18号に相当した.内容は随筆,学術論文,クラブ活動に関するものなどが中心であった.
 昭和16年4月23日,長崎医科大学,同附属専門部および同臨時附属医学専門部の全職員,同学生生徒を団員とする長崎医科大学報国団が結成され,植田高三教授が副団長となった.11月1日には勅令第924号で,大学学部等在学年限または修業年限臨時短縮の件が公布され,この年に卒業すべき者については3ヶ月間修業年限が短縮され,昭和17年度に卒業の者は,6ヶ月間短縮されて卒業した. 附属薬学専門部時代の歴史の中で最大の悲劇は原爆による被災である.
 昭和20年8月9日,午前11時2分,長崎医科大学から至近距離にある長崎市松山上空に投下された原子爆弾によって,薬学専門部は医科大学と共に一瞬にして焦土と化し,校舎,図書,実験器材などすべてを失った.医科大学の殉難者は角尾学長以下教職員学生850名余にもなった.薬学専門部では防空壕の補強作業中の清木美徳教授が被爆負傷し,杉浦孝教授は薬草園で被爆即死,山下次郎教授は附属病院入院中に被爆死亡した.在籍の生徒数は201名であったが,その内の1,2年生152名は工場へ動員中で難を逃れることができた.不幸にも,在校中の3年生は防空壕作業中に24名,残留していた2年生9名,図書整理中の1年生5名,事務関係者6名の計46名が被爆死亡した.


 混乱を極めた原爆直後の薬学専門部の復興は筆舌に尽くし難いものがあった.江口虎三郎部長は灰燼と化した長崎校舎での専門部の生徒収容は困難であると判断u,昭和20年,佐賀市多布施町の元日東航機工業青認学校校舎跡に疎開して講義を再開した.次いで昭和22年には,諫早ミs小肥島村の元長崎地方航空機搭乗員養成所跡に移転した.


 ここでの,200名に近い生徒の生活は食糧事情が悪い上に,校舎の設備や資材が極端に不足した状態であり,大変な苦労であった.また,この頃新学制が発令され,専門学校が将来新制大学に昇格することになり,文部省による資格審査が始まるとともに,長崎医科大学附属医学専門学校が廃校となった.原爆により丸裸となった薬学専門部では,医科大学附属という不利な立場や,長崎から離れた不便な場所であるなどを考慮して,小野島での復興をあきらめ,たまたま九州大学医学部に薬学科創設の企画があったことをうけて,一番ヶ瀬尚部長代理を中心に専門部あげて九州大学との併合を目指した.一方,長崎医科大学は附属薬学専門学校の引き留めを決議するとともに,県当局も動かし,長崎に存置するように運動を展開した.以後,文部省,九州大学,長崎医科大学,長崎県を巻き込んでの度重なる審議,薬学専門部への医科大学および県当局の対応の大幅な改善と備品・設備の急設援助,など幾多の紆余屈折を経て昭和23年8月18日,文部省の第3回査察により,薬学専門部として存続することが決まった.
 同年11月薬学専門部長に川上登喜二教授が静岡女子薬学専門学校校長から薬学専門部長として着任し,新制大学昇格に向けての努力の結果,昭和24年5月31日,国立学校設置法の施行によって新制長崎大学が発足し,薬学専門部は包括学校となった.昭和26年3月2日,薬学部校舎として補修改装中の長崎市昭和町校舎で薬学専門部最後の卒業式があり,58名の卒業生が送り出され,3月31日をもって薬学専門部の歴史を終えた.


   3. 新制長崎大学薬学部(1949〜)及び長崎大学大学院薬学研究科(1965〜)
 新制長崎大学薬学部の第一回入学生は45名で,昭和24年8月25日の入学となった.初代学部長は川上教授であった.教養課程は大村校舎(元長崎師範女子部)と長崎校舎(元長崎経済専門学校の一部)に分断されていたが,昭和25年5月専門課程に入るに際して,長崎市西山の経済学部の教室を一部貸与してもらい,ここに専門課程が発足した.その後,昭和町の旧師範学校男子部の校舎を修復し,26年4月完了とともに,西山から移転した.さらに,昭和44年5月に文教町にある現薬学部校舎が竣工し,この地に移転し現在に至っている.
 この間,昭和31年には専攻科が設置され,昭和40年4月には大学院薬学研究科(修士課程)が設置された.さらに,昭和42年4月から従来の薬学科の他に製薬化学科が増設され2学科80名となり, 昭和61年には博士課程の医療薬科学専攻が設置された.また,博士課程の設置により,2学科13講座の薬学部を大講座制に改組し,薬科学1専攻,4大講座とした. 平成2年(1990)6月18日には,創立百周年を迎え,11月17日盛大な記念式典が挙行されるとともに,長崎大学薬学部百年史が刊行された.また,これを記念して集められた寄附金により,百周年記念館が建設され,その名称を応募の結果,薬学部の校章に因んで「柏葉会館」と命名された.
 現在までの卒業生は附属薬学専門学校までが2,138名,新制大学以降が3,063名,計 5,201名である.また,大学院修士課程の修了者は652名になり,博士後期課程にもこれまで47名が入学している.平成11年4月には,臨床薬学専攻の大学院設置され,本格的な臨床薬剤師教育にむけての第一歩を踏み出した.


資料: 長崎大学薬学部百年史 平成2年11月17日 長崎大学薬学部創立百周年記念事業会発行.
長崎大学薬学部の歴史 中島憲一郎 薬史学雑誌 33 111-114 (1998)
   
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