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薬の歴史
 
長崎薬学史の研究
 
ホーム薬の歴史長崎薬学史の研究第二章近代薬学の導入期>1.ポンペ、ハラタマなどオランダ医師薬剤師の渡来

第二章 近代薬学の導入期

1 ポンペ、ハラタマなどオランダ医師薬剤師の渡来
 鎖国時代、シーボルトに至るオランダ商館医によって西洋医学が長崎を経由して日本に伝授されてきた。シーボルトの研究協力者であったビュルガーは日本に初めて化学的な手法を用いた実験的手法による分析を持ち込んだようである。このようにして日本に浸透し始めた自然科学としての化学の教育は、幕末から明治にかけて大きくその形を変えていくことになり、この時期を日本への近代薬学の導入期と考えることができよう。この導入期にも鎖国時代に引き続き多くのオランダ医たちが活躍した。近代西洋医学教育の父と称され、長崎大学医学部の創立者であるポンペ、日本に生理学を導入したボードウィン、理化学専門の教師ハラタマをはじめとする、主にユトレヒト陸軍軍医学校出身の面々である。彼らは長崎の地に招かれ、長崎の地で教鞭をとったのである。図2.1は長崎に滞在したオランダ医のうち主な者の名を来日順に、彼らの在日期間とともに表したものである。


   オランダ海軍軍医が教えてくれた近代西洋医学
 日本は鎖国状態であったとはいえその当時の世界情勢を、少なくとも一部の幕府高官はかなり正確に把握していたようである。それらはオランダを通じて蓄えられた知識に他ならない。とは言え1853年(嘉永六年)、唯一の窓口「長崎の出島」ではなく浦賀沖に現れたペリー率いる四隻の黒船が幕府に与えた衝撃がいかに大きなものであったかは想像に難くない。幕府がまずなによりも海防の充実を図ることを考えたのは当然のことであろう。早速、長年友好を続けてきたオランダに協力を求め、軍艦の寄贈と二隻の軍艦建造、並びに海軍教育班の派遣などの話し合いが成立した。オランダにとっても日本との交易拡大は有利だと考えたのであろう。1855年(安政二年)、軍艦スームビング号(日本名観光丸)がオランダ国王からの贈り物として幕府に寄贈された。この船の乗員、ライケンらは教師となり、長崎に開設された海軍伝習所で、第一次海軍伝習は始まった。この年に来日したオランダ軍医ファン・デン・ブルック(Jan Karel van den Broek)は長崎奉行からの依頼を受け、長崎通詞達に化学・物理学の伝習を始めたが、断片的な「科学教室」といったものであったらしい。オランダ人の先生が日本語を話すわけもなく、通詞という通訳を介しての、または通詞自身が生徒であった。海軍伝習には幕府のみならず、各藩からも伝習生が参加することができた。筑前藩から長崎に来ていた河野禎造は我が国最初の無機分析化学書「舎密便覧」(1895年)を著した。この本はドイツの分析化学者 H. Rose の Handbuch der analytischen Chemie が原本である。オランダの H. Kramer Hommes が翻訳して1845年に出版したものをファン・デン・ブルックが門弟の河野に与え、彼はこれを翻訳した。第一次海軍伝習は1857年に終了した。


   第二次海軍伝習とポンペの来日
長崎海軍伝習所之図
長崎海軍伝習所之図
財団法人鍋島報效会蔵
 1857年(安政四年)、カッテンディケを隊長とする第二次海軍伝習の派遣教官団37名が、ヤパン号で来航した。咸臨丸(もともとの名前はヤパン号)は幕府がオランダに頼んで造ってもらった船で勝は第一次海軍伝習で中心的役割を果たした。その咸臨丸は第二次海軍伝習の派遣教官団を乗せて長崎にやってきた。この中に、幕府の軍医派遣の要請に応えてカッテンディケが選んだオランダ海軍二等軍医ポンペが入っていた。ポンペこの時若干28歳。彼はその時から5年間にわたり日本に滞在し、日本の医学教育に大きな一歩を標すことになる。
 一方ポンペを迎える日本側の中心として活躍したのは松本良順である。松本良順は下総佐倉の生まれで順天堂医院の開祖、佐倉藩医佐藤泰然の次男として生まれた。幕府医官松本良輔の養子となり長崎に来ていた。この当時は蘭方禁止の時代で漢方医が力をもっていたようで、松本良順も表向きは漢方医であった。なお松本良順は後、明治維新に際しては養家の関係から幕府方についたが、その後許されて病院を設立したそうである。やがて山懸有朋に知られ、陸軍軍医部の編成に努め、1873年(明治六年)初代の陸軍軍医総監となった。「養生法」「通俗衛生小言」などを著し、晩年は趣味人として自適の生活を送り、1907年(明治四十年)没した。


   医学伝習の始まり
 やがて、第二次海軍伝習が始まり、海に囲まれた日本の海岸を守るため咸臨丸に乗り込んだ伝習生達は波にもまれながら日夜海軍伝習に打ち込み始めた。一方、日本の長崎の地を踏みしめたポンペは松本良順らに迎えられ、医学の医の字はおろか、その土台となるべき基礎科学の知識にさえ乏しい者たちに、西洋医学を文字通り一から一人で伝えようと悪戦苦闘を始めた。1857年(安政四年)11月12日、出島の前にあった長崎奉行所西役所の医学伝習所(現在の長崎県庁所在地)で医学伝習(医学教育)は始められた。なお、長崎大学医学部はこの日を創立記念日としている。医学伝習が始まって間も無い1857年12月末には、ポンペは長崎に天然痘が蔓延しはじめたので公開種痘も開始している。はじめは海軍伝習の一部として始まったこの医学伝習であったが、1860年(万延元年)には海軍伝習が終了し、カッテンディケ隊長以下の隊員は帰国した。ポンペとハルデスは残り、医学伝習所は長崎の街を見下ろす東方の丘の小島郷に場所を移して医学所となり、その隣には日本最初の洋式病院である養生所が設置された。


   ポンペの医学伝習
ポンペ
ポンペ
 ポンペに課せられた使命は日本人に西洋医学、つまりポンペの学んだ医学を教えることであった。ポンペが偉かった点にうわべだけの医学術を教えたのではなく、物理、化学等のいわゆる基礎科目を含めて解剖学、生理学、病理学等の講義から系統的な医学教育を始めたことがあげられる。現在では医学部の学生が基礎科学科目の勉強からスタートするのは当然のことであるが、当時の日本では基礎科学の知識レベルが著しく低かった(ほとんどなかった?)ことを考えると、極めて困難な道を選んだわけである。 医学伝習においては西洋医学のイロハも知らない伝習生に言葉の壁を乗り越えて立ち向かわなければならなかったのである。教える側、教わる側の困難と苦労は計り知れない。この難業を若くして成し遂げたポンペの偉業は強く、高く称賛されるべきである。
ポンペのカリキュラム
 ポンペが長崎で教えた医学はポンペ自身の学んだものである。ポンペのカリキュラムが知られているが、明らかにポンペの出身校であるユトレヒト陸軍軍医学校のカリキュラムに準拠したものであることがわかる。採鉱学が含まれているのは長崎奉行の要望に応えた結果のようである。軍医学校の特徴である、理論と実地能力のバランスのとれた医師の養成が長崎にも受け継がれた。そのため内容は臨床的であり、しかも救急治療に直ちに役立つような実学であった推測されている。
ここでは一日わずか3時間の講義だが、最初は言葉の問題が大きく、後半の臨床医学の講義は一日8時間にも及んだ。何度も繰り返すが言葉の壁は如何ともなしがたい。オランダ語の堪能な松本良順、司馬凌海そして佐藤尚中は、昼にあったボンペの講義をもう一度夜復講して他の学生の理解を助ける努力をした。
ポンペによる医学伝習はそのものが日本ではじめての系統的なものであるが、医学教育の歴史から見て重要なはじめてがいくつかある。その一つが1859年9月(安政六年八月)に西坂の丘の刑場で三日間に渡って行われた日本初の死体解剖実習である。ポンペはその後も死体解剖を行っているが、その見学者の中にはシーボルトの娘お稲(楠本いね)も混じっていた。この解剖実習は簡単に実現したものではなく、その許可が下りるまでは、図版をパリから取り寄せた紙製の人体解剖模型(キュンストレーキ)によって説明していた。


   紙製人体解剖模型 キュンストレーキ
 キュンストレーキについて少し説明しよう。キュンストレーキとは紙製の人体解剖模型で、フランス人の解剖学者オズー(Louis Thomae Jer冦e Auzoux)によって作られた。解剖用死体の不足を補うために作られ、フランス語では”Anatomie Clastique”(分解できる解剖模型)と呼ばれている。キュンストレーキ(Kunst lijk)はオランダ語で人工死体を意味する。日本にも、長崎大学に一体(男)、金沢大学に一体(男)、福井医師会に二体(男・女)などが現存している。長崎の一体はポンペにより1860年にパリから取り寄せられたらしい。
キュンストレーキ
キュンストレーキ
長崎大学附属図書館医学分館蔵

日本初の西洋式病院「養生所」
 1861年8月に日本で最初の西洋式の病院である養生所が医学所と並んで設置されたことである。養生所設置への道のりも易しいものではなかった。日本滞在の5年の間、ポンペは数多くの患者を治療し、猛威を振るったコレラとも戦った。コレラの治療法としては、キニーネとアヘンを配合したものを飲み、入湯することであった。ポンペの努カは、漢方医の治療を上回る成果を挙げコレラも沈静化したので、長崎の町の人々はポンペに次第に信頼と尊敬を寄せるようになっていった。
 養生所は医学校(医学所)に付置された日本で最初の124ベッドの西洋式附属病院である。ポンペは多くの日本人医学生に対して養生所で系統的な講義を行い・患者のベツドサイドで医の真髄ともいうべきものを教えた。その教え子達によって本邦に西洋医学が定着したので、近代西洋医学教育の父と称されている。 ポンペの著書に、次のような学生を教え諭した言葉が記されている。「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んた以上、もはや医師は自分自身のものでほなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい。」ポンペのこの言葉は医学を志す学生のみならず、医療の一翼を担う薬学部の学生にとっても共通の言葉である。ボンペは後任ボードウィンの着任を待って1862年11月に帰国したが、最後に学生に卒業証書を手渡している。


   ポンペの使ったくすり
 この本は「出島のくすり」という本なので、ポンペの使った薬について少し見ておこう。1858年7月から翌年7月までの間に必要とされた薬とその数量と医療品その他に関する請求書が残されている。ポンペがバタビアの「国立医薬貯蔵所」に宛てて出したものである。薬種は約193種類で医療品の品目は約56種にのぼる。それらを一覧表にしたのが表2.2である。

表2.2 ポンペの使った薬 (宮永孝著 ポンペ 筑摩書房より)
薬品名 用 途
Acelas Ammon    
Acelas plumbi  
Acetum scillae  
Acetum vini  
Acidum phosphorie(燐酸) (清涼・止瀉・消化)
Aloe(ロカイ) 健胃緩下剤
Aqua amygdal  
Aqua Chlorata(塩素酸塩類)  
Cantharides(カンタリス) 皮膚薬・疼痛緩和
Cortex peruvian fuscus (ペルー産の褐色の樹皮)  
Ccbebea(インド産のクババ実) 治淋剤
Emplastrum Cantharides(カンタリス硬膏) 炎症・神経痛
Extractum carduibenedicti 鎮痛剤(キバナアザミのエキス)
Extractum graminis(カモジグサ属のエキス)  
Extractum liquiritiae 子宮出血・陣痛・月経過多
Extractum taraxaci(タンポポ根のエキス) 強壮剤・緩下剤
Fel bovinum inspiss(牛胆汁の濃縮液)  
Folia sennae(セシナ葉) 瀉下剤
Folia uva ursi(ウワウルシ葉) 防腐・収斂剤
Hydriodas potassae  
Lichen islandicus(イスランド苔) 粘膜性健胃苦味剤
Lignum guajaci(グアヤクホ) 利尿剤
Lignum sassafras(サッサフラス木) 発汗・利尿剤
Manna(マシナ樹) 緩下剤・矯味剤(不快な臭味を消す)
Murias morphii  
Nitras argenti fusum 殺菌・腐蝕・収斂
Nitras potassae  
Oleum cajaputi(カラプテ油)  
Oleum Foeniculi(茴香油) 健胃・駆風・矯味剤・点眼料
Oleum jecoris aselli(肝油) 抗佝僂(くる)病・ビタミンA、D欠乏症
Oleum menthae piperitae(ハッカ油) 健胃・駆風剤・清涼剤・興奮剤
Oleum olivarum(オレフ油) 乳剤・擦剤・灌腸料
Oleum ricini(ヒマシ油) 緩下剤
Oxymel simplex(単酢蜜) 甘味剤
Poroxydum margar  
Radix jalappae pulverat 下剤(粉宋状のヤラッパ根)
Radix sarsaparillae(サルサ根) 梅毒
Radix senegae(セネガ根) 去痰剤
Roob juniperi(杜松実ローブ)  


   ボードウィン
ボードウィン
ボードウィン
 ポンペの創設した長崎の医学校、養生所の二代目オランダ人医学教師として、1862年(文久二年)に来日したのがボードウィン(Bauduin Antonius Franciscus)であった。ボードウィンもポンペの教育方針を継承して、医学と同時に理化学も教授した。
k ボードウィンは、ユトレヒト陸軍軍医学校で生理学教授として、学生であったポンペを教えている。ボードウインは高名なドンデルスと共に生理学の教科書を著していて、ポンペはその著書を養生所の講義に用いていた。

 ポンペの帰国後、長崎の医学校、養生所の二代目オランダ人医学教師として、1862年(文久二年)に来日したのがボードウィン(Bauduin Antonius Franciscus)であった。ボードウィンもポンペの教育方針を継承して、医学と同時に理化学も教えた。
ボードウィンは、1822年ドルトレヒトの生まれで、1843年ユトレヒト大学を卒業し、グロニンゲン大学で医学博士となっている。ユトレヒト陸軍軍医学校の教官として、学生であったポンペを教えている。ボードウインは高名なドンデルスと共に生理学の教科書を著していて、ポンペはその著書を養生所の講義に用いていた。出島に在住していた弟のオランダ貿易会社駐日筆頭代理人アルベルト・ボードウインの薦めにより、教え子ポンペの後任として1862年に養生所教頭となった。  ボードウィンは生理学だけでなく、外科手術学の教科書や検眼鏡の使用法を蘭訳本にするほど、臨床的知識が豊富で医学全般を教授できた能力を持っていたようである。長崎大学医学部にはボードウインの生理学、眼科、内科の講義録が残されている。生理学の講義録を読むと最新の惜報を含み、臨床的知識を織り込みながら生理学全般にわたった素晴らしい内容である。例えば「交感神経と蔓延(迷走)神経が心臓を拮抗的に二重支配しており、蔓延神経をエレキで刺激すると心臓は止まり、切断すると交感神経が優位となり心拍数が増加すると教えている。交感神経と迷走神経の拮抗性は脳脊髄神経や交感神経の電気刺激が行われるようになった19世紀中頃に明らかになった新知見である。」と述べられている。特に眼科術に優れていたことは多くの本に記されている。
 ボードウィンはまた物理、化学の教育を医学教育から切り離して独立させることを幕府に進言し、1864年(元治元年)八月に養生所内に分析究理所が新たに設けられた。当時の言葉で、分析は化学、究理は物理のことで、分析究理所とは理化学校という意味である。分析究理所は1865年末に完成し、養生所は精得館と改称された。ボードウィンはこの分析究理所に理化学専門教師としてオランダからハラタマを招くこととし、1866年長崎に着任している。

   ハラタマの来日
ハラタマ
ハラタマ
 クーンラート・ウォルテル・ハラタマ(Koenrad Wolter Gratama)は、1831年4月25日にオランダのアッセンで十一人兄弟姉妹の末弟として生まれた。父は裁判官で後にアッセン市長にもなっている。ハラタマはユトレヒトの国立陸軍軍医学校を卒業後、三等軍医として一年間ネイメーヘンで軍務につき、1853年に母校である軍医学校の理化学教師となった。一方で、ユトレヒト大学の医学部、自然科学部に学生として在籍した。その間に二等軍医に昇格していた。

 1865年(慶応元年)の末に日本政府の幕府からハラタマに長崎分析究理所における理化学教師として招聘され、翌年4月16日長崎にしている。ハラタマの任務はボードウィンの下、養生所での調剤なども含めた病院の監督業務と、分析究理所での化学、物理学、薬物学、鉱物学、植物学などの自然科学の講義であった。その講義は医学所(精得館)の医学教育の基礎教育を担当する意味もあった。新たに設立された分析究理所の運営はハラタマに任された。ハラタマのオランダ語の講義は、随行する三崎嘯輔が通訳してほかの学生に伝えたと推測されている。この学生達の中に、後に日本の医学、科学の先覚者となる池田謙斎、戸塚静伯、松本圭太郎、今井厳などがいた。


   ハラタマの化学教育
 精得館所蔵の化学実験器具の図入目録を写した「分析道具品立帳」によれば全部で59種、250点以上の化学実験器具が図解されている。薬瓶、漏斗、坩堝、浮秤、各種ガラス器具など、当時のヨーロッパでの化学実験の器具は一応揃っていた。化学試薬、薬品も送られてきていたであろうから、分析究理所の化学実験はハラタマがユトレヒト大学で行っていた水準をそのまま移した高度なものであったと思われる。その頃までの日本では、大阪の適塾や江戸の開成所で化学実験が試みられたという記録はあるが、徳利を蒸留器に、そこに穴を開けた茶わんを漏斗に使うという有り様で、西欧流の本格的な化学実験は長崎でのみ可能で、ハラタマの分析究理所がわが国での組織的な化学教育の最初であったと考えられる。つまり、日本の化学教育においてはじめて化学実験が行われたのが長崎の分析究理所であったということになろう。
 ハラタマの実験教育は徹底しており、化学志望の学生には、薬瓶に必ず内容物の名を記入したラベルを貼ることを命じた。今、水を入れて実験台に運ぶところだと言いわけしても聞き入れられず、ラベルを貼っていないとその水を捨てさせるという厳格なものであった。精得館の医学生もはじめはハラタマの理化学の講義を聴講に来るものが多かったが、その厳格な教育に耐えられず、次第に去って行って午後の理化学の専門講義を聴くものは少数となった。そこで、ハラタマは午前に医学生向きの一般化学講義を開始し、医学生も多く出席した。
 ボードウィンが精得館の教官を交代したい旨を幕府に願い出て、後任の医師としてこれまでと同じユトレヒト陸軍軍医学校の出身であるマンスフェルト(Constant George van Mansvelt)が1866年に長崎に着任した。ボードウィンは日本の医学教育、並びに理化学教育は中心地である江戸で行うべきであるという考えを持っていたようで、精得館の教頭をマンスフェルトと交代した後、ボードウィンは帰国する直前にハラタマと一緒に江戸に出向き幕府にその考えを提言している。この考えは受け入れられ、ハラタマへ幕府から江戸に理化学校開設が決定した旨の通告が来て、ハラタマは江戸で新学校設立に当たることになった。そのためハラタマの長崎滞在は一年にも満たず、1867年始めに江戸へ向かうこととなった。ハラタマの江戸行きの一ヶ月前、わが国薬学の創始者である長井長義がハラタマについて化学を学ぶつもりで長崎に到着したが、すれ違いとなっている。理化学校建設のため江戸へ着いたハラタマであったが、計画は全く進まずいらだたしい日々を送らなければならなかったことが日記に残されている。
 ボードウィンはまた、日本とオランダの間を複数回往復しているようである。1867年教え子緒方惟準(緒方洪庵次男)を連れて一度オランダに帰り、惟準をユトレヒト陸軍軍医学校(一般にはユトレヒト大学とされているが)に入学させる手続きをしてすぐ日本へ戻っている。その後、遅れている江戸に医学校を開設するという幕府との交渉を続け、1867年、幕府との約定書を結ぶことに成功する。しかし、大政奉還が1867年11月で、翌年には明治新政府が成立しているわけであるから、時はまさに維新の動乱のまっただ中のことである。オランダ政府に日本再渡航の許可をもらうため帰国し江戸の学校の創設準備中に、政権は明治政府に移りイギリスとの新しい条約が結ばれていた。再び江戸に戻ったボードウィンが働くべき場所はなかった。


   大阪でのハラタマ
 1868年に発足した明治政府は、当初大阪を首都にという考えもあり、幕府が交わしていた契約を引き継ぐ形でボードウインとハラタマを大阪に招聘し医学校と理化学校を建設しようとした。同年ハラタマは大阪舎密局の建設に着手したが、ここでもすんなりことが運ぶことはなかった。建設はまたもや遅れに遅れた。ボードウィンの大阪入りが遅れたためハラタマは大福寺の仮病院で診察の仕事をこなさなければならなかった。ボードウィンは遅れて1869年3月に着任した。1869年4月オランダから帰朝した緒方惟準を院長として正式に大阪府仮病院(大阪大学医学部の前身)が発足し、医学校教頭ボードウィンの講義が始まった。遅れていた舎密局の建設もその後、大阪府管轄となって再開されて、同年6月には開校にこぎ着け、ハラタマはその教頭となった。


   ハラタマの成果
 前述のごとく、明治維新を目前に来日したハラタマは幕末維新の動乱の中を過ごした。ハラタマの任務であった西欧近代科学の日本への移植は、まず長崎の分析究理所で開始されたが、長崎の滞在期間は一年にも満たず、教育を受ける側の日本人学生にも準備と認識の未熟な点があり直接見るべき成果を挙げることはできなかった。
 しかし間接的には、ハラタマの長崎滞在は薬学の先覚者長井長義を生む契機となった。また、分析究理所時代の学生、池田謙斎は東京大学医学部の初代総理としてわが国医学の発展に大きな足跡を残した。そして、大阪舎密局におけるハラタマの化学教育は大きな成果を挙げることになった。また、舎密局の聴講生であった高峰譲吉は、消化酵素タカジアスターゼの発見、アドレナリンの結晶化などの世界的レベルの業績を挙げた。ハラタマの舎密局時代の助手村橋次郎は、大坂衛生試験所の初代所長となった。この村橋の教え子の池田菊苗は、東京大学理学部教授となり、日本伝統の昆布のうま味成分を研究しグルタミン酸ナトリウムを分離している。これが現在の、調味料およびアミノ酸製造産業のもととなっている。

分析究理所と養生所

分析究理所と養生所



   長崎のハラタマ
 慶応2年(1866年)3月に精得館所蔵の化学実験器具の図入目録を移した「分析道具品立帳」によれば全部で59種、250点以上の化学実験器具が図解されている。薬瓶、漏斗、坩堝、浮秤、各種ガラス器具など、当時のヨーロッパでの化学実験の器具は一応揃っていた。化学試薬、薬品も送られてきていたであろうから、分析究理所の化学実験はハラタマがユトレヒト大学で行っていた水準をそのまま移した高度なものであったと思われる。その頃までの日本では、大阪の適塾や江戸の開成所で化学実験が試みられたという記録はあるが、徳利を蒸留器に、そこに穴を開けた茶わんを漏斗に使うという有り様で、西欧流の本格的な化学実験は長崎でのみ可能で、ハラタマの分析究理所がわが国での組織的な化学教育の最初であったと考えられる。
ハラタマの実験教育は徹底しており、化学志望の学生には、薬瓶に必ず内容物の名を記入したラベルを貼ることを命じた。今、水を入れて実験台に運ぶところだと言いわけしても聞き入れられず、ラベルを貼っていないとその水を捨てさせるという厳格なものであった。 精得館の医学生もはじめはハラタマの理化学の講義を聴講に来るものが多かったが、その厳格な教育に耐えられず、次第に去って行って午後の理化学の専門講義を聴くものは少数となった。そこで、ハラタマは午前に医学生向きの一般化学講義を開始し、医学生も多く出席した。
 前述のようにボードウィンは1866年に離任帰国する直前ハラタマと共に江戸に赴き、江戸に医学校と理学校を建設するよう幕府に提言し、それが認められた。同年長崎へ帰っていたハラタマへ幕府から江戸に理化学校開設が決定した旨の通告が来て、上京を促してきた。この新学校設立に当たっては、おそらくハラタマの意見が受け入れられて、「化学、物理学およびその応用科学をそれ自身のために教える」という方針が決定されていた。しかし、幕府崩壊により夢となってしまうのだが、ハラタマは江戸へ向かうこととなった。ハラタマの江戸行きの一ヶ月前、わが国薬学の創始者である長井長義がハラタマについて化学を学ぶつもりで長崎に到着したが、すれ違いとなってしまった。


参考文献: オランダ人の見た幕末・明治の日本 芝 哲夫 菜根出版(1993) 
ポンペ−日本近代医学の父− 宮永 孝 筑摩書房(1985) 
蘭学の背景 石田 純郎 思文閣出版(1988) 
長崎医学の百年 中西 啓 
海外情報と九州−出島・西南雄藩− 姫野順一編 九州大学出版会(1996) 
科学史技術史辞典 弘文堂(1994) 
科学・技術人名辞典 都築洋次郎編著 北樹出版(1986) 
長崎のオランダ医たち 中西 啓 岩波書店、特装版(1993) 
江戸のオランダ医 石田 純郎 三省堂(1988) 
日蘭交流の歴史を歩く KLMオランダ航空ウインドミル編集部編NTT出版(1994) 
日本の西洋医学の生い立ち 吉良枝郎 築地書館(2000) 
概説 薬の歴史 天野 宏 薬事日報社(2000) 
   
長崎大学