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慶応元年(1865)に養生所と医学所は統合されて精得館と改称、化学教室である分析窮理所も新設された。これが現在の長崎大学薬学部の前身と言ってよい。治療や薬の開発のため分析は昔も今も必要である。この分析究理所に前述のごとくオランダからハラタマが招聘された。
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分析究理所の間取り(ハラタマのスケッチ)とハラタマの書簡より推定される部屋の使用。
(オランダ人の見た幕末明治の日本、芝哲夫著より) |

明治初期の分析究理所、養生所 は既に壊させている。大浦天守堂が見える
(長崎大学図書館所有) (現 在) |
翌年にはコレラが大流行し、梅毒病院の事務員が感染したために病院は閉鎖され、旧療養所の建物等は取り壊された。1878年、長崎病院医学所は長崎医学校に改称され、翌1879年に再び名を改めて県立長崎医学校と呼ぶに至った。1880年に県立医学校が大徳寺跡に新築移転したのを機に、養生所の建物は建築後19年にして廃屋となった。1881年には空き家となった養生所は梅毒病院として利用されるに至った。この病院も明治22年に改築され県立小島病院となるが、この年が歴史的建造物、養生所の最後の年である。 1890年(明治23) 6月 第五高等中学校医学部に薬学科創設(この6月18日を薬学部創立記念日とする)。薬学生は小島郷佐古校舎と浦上の附属施療病院(後の長崎県立長崎病院、現医学部)で受講した。 養生所の病棟が壊された時期は定かではないが、その跡地は明治39年に佐古小学校が設置されるまで、長い間空き地となっていたようである。養生所に付属する分析究理所だけは昭和25年まで遺存し、長く職員室として用いられた。しかし、これも昭和25年6月に取り壊された。
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昭和20年頃、分析究理所は佐古小学校の職員室として利用。 |
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昭和25年6月解体 |
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現在の佐古小学校に立てられた養生所及び究理所跡の碑 |
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100周年を記念して建てられた柏葉会館は分析究理所をイメージしています。 |
参考文献: |
オランダ人の見た幕末・明治の日本 芝 哲夫 菜根出版(1993)
ポンペ−日本近代医学の父− 宮永 孝 筑摩書房(1985)
蘭学の背景 石田 純郎 思文閣出版(1988)
長崎医学の百年 中西 啓
海外情報と九州−出島・西南雄藩− 姫野順一編 九州大学出版会(1996)
科学史技術史辞典 弘文堂(1994)
科学・技術人名辞典 都築洋次郎編著 北樹出版(1986)
長崎のオランダ医たち 中西 啓 岩波書店、特装版(1993)
江戸のオランダ医 石田 純郎 三省堂(1988) |
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