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柏葉健児 目次 背番号10

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ソフトボール

 


昭和62 年卒業 松岡 芳樹

 現在も、続いているのか解りませんが、私達の学生時代には、毎年恒例の教室対抗ソフトボール大会が、開かれていました。入学当時、野球部の先輩から「人が足りないから、ソフトボールの試合に出てくれ。」と言われ、何も解らないまま、「ハイ」と答え、同級生と2人、大急ぎでグローブ片手に、グラウンドへ走りました。その時、参加したチームが、当時の合成化学教室で、渡辺先生がピッチャーをされていました。先輩に「お前達は若い(当時18才)から外野を守れ。」と言われ、私がセンター、友人のR君が、ライトの守備につきました。対戦チームも試合の結果も、はっきりとは覚えていませんが、試合の途中の守備での出来事です。ライトに平凡なフライが上がり、センターを守っていた私には、ボールの軌道がよく解る為、ライトを守っているR君に「バック、バック」と何度も大声で叫びました。が、しかし、そのR君は、何を血迷ったか、捕球体制に入ると「オーライ、オーライ」と叫びながら、どんどん、前に突っ込んでいきます。ボールは、はるか頭上を越えていき、私がそのボールを追いかけます。ボールに追いついた時には、もうバッターはホームイン、平凡なライトフライがホームランとなってしまいました。守備が終わり、ベンチに戻ると、R君は先輩から「なんしよっとや!もう2度と信用せん!」などと、こっぴどく絞られていました。そこへ、渡辺先生が近づいて来られ「ドンマイ、ドンマイ。気にするな。次、がんばれよ。」と暖かい言葉をかけられていました。その言葉に、R君も多少ほっとしている様子でした。
 それから3年が過ぎ、私は4年生となって、薬化学教室へ進み、渡辺先生がピッチャーの合成化学教室と対戦することになりました。3年生の終わりに、不注意で足を骨折していた私が、先生から偶然にも、レフト前のヒットを放つと「おお、走れるようになったか。よかったなあ。」と笑顔で声をかけて下さいました。その言葉が今も、胸に残っています。
 そして、1年が経ち、院へと進んだ年の、野球部OB会の席では、市川先生から「研究室に閉じこもらずに、医療の現場に出てきて、もっと顔の見えるところで仕事をしなさい。」というようなお話がありました。その時、渡辺先生は、苦笑いをしながら頭を掻いておられたようでした。また、市川先生には、卒業してからの大学関連の講演会や勉強会の席で大変お世話になりました。威風堂々とされた先生の講演の様子が、今も思い出されます。
 最後になりますが、市川、渡辺両先生のご冥福を心からお祈りいたします。

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