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渡辺先生との出会いと別れ

 


昭和62 年卒業 池沢 竜平

 私が、薬品生物工学助教授の伊藤先生からこの原稿の執筆依頼をいただいた時、ある種の不安が浮かびました。勿論、これは大変光栄なことではありますが、「故人を偲ぶ」というテーマが書けるかどうか不安でしたし、私自身、自他共に認める筆無精でして、締め切りに間に合わないかもしれないと思ったのです。思わず合成化学同期の誰かにパスしたいなと思いましたが、同時に渡辺先生の「何事も覚悟を決めんばねー。」という言葉を思い出し、在学中にもお世話になりっぱなしだったことも考え、覚悟を決めてこの原稿の執筆を始めることにしました。なお、私はキャラ的にしんみりとは書けませんので、渡辺先生を私なりに明るく偲びたいと思います。

○出会い まず、私が渡辺先生に初めてお会いしたのは長崎大学 薬学部 に入学後、準硬式野球部に入部してしばらくしてからでした。その頃、先生は合成化学教室の助手で野球部顧問という立場だったと思います。私が教室に挨拶に伺った時の最初の印象は活力があるというか、とにかく忙しそうに実験をされており、私が「今度、野球部に入部しました池沢です。どうぞ宜しくお願いします。」と言うと先生は、私にジロリと一瞥をくれると「おう、よろしく」と言って、また忙しそうに実験室に戻られたことを覚えています。ほんの一瞬でしたが、先生の眼鏡越しのジロリとした顔が非常に印象的な出会いでした。
 その後、大学4年時に合成化学教室に入り、渡辺先生にご指導頂くようになって、合点がいったのですが、初対面の時は、リチエーション反応の真っ最中で、本当に忙しかったのだと分かりました。このリチエーション反応は、渡辺先生がカナダ ウオータルー大学のスニーカス教授のもとで学ばれた反応で、窒素置換下に無水溶媒中、ドライアイス・アセトンで-78℃に冷却し、ブチルリチウムとジイソプロピルアミンを滴下反応させてLDAを生成させ、(私の時は)引き続きオルトトルアミド(またはバルキーなエステル)誘導体にてアニオンを発生させ、これを種々のベンゾイル化合物に求核的に反応させるもので、下準備も含め、これを3つ4つ同時にやると、反応追跡用のTLCチェックや終了後のカラム精製作業等で1日があっという間に終わってしまう代物でした。勿論、現在の学生諸君には数ある基本的な化学反応の一つかも知れませんが、当時22歳の決して優秀とはいえない学生であった私にとっては大変新鮮で且つ興味深いもので、14年経た現在も未だに忘れていないのは渡辺先生の熱心なご指導があったからだと思います。
 さて、そんな忙しい学生生活を送りながら、恐らくは私を含め渡辺先生に関わられた諸先輩方および後輩の方々に共通すると思われる、日々の研究業務が一段落した後のあれ、特に真夏の暑い日にやるあれは本当に楽しかったですねー、たまに焼きソバが付くささやかなドリンクパーティー。現在は恐らく禁止になっており、今の学生諸君には想像できないかもしれませんが、当時は非常におおらかな雰囲気があり、研究業務終了後は教室での酒盛りOKだったんです。そして、当時の合成化学教授の古川先生や院生の方々も一緒になって、教室のみんなでワイワイガヤガヤ、それはもう盛り上がりました。話題の中心には、いつも渡辺先生がいて、時には面白い話が、時には熱い人生論が展開されていたことを覚えています。
 例えば、渡辺先生から「その反応は危ないから、ドラフトの中でやれよ。」と言われたご本人が直接ドラフトの中に入って実験をしていた話を聞き、危なかったのは反応ではなく、本人だったという落ちに大変オオウケしたという記憶があります(その方のお名前は記憶にありません)。また、当時、野球部主将の同期のT君は、よく渡辺先生と学生らしからぬ話題で熱心に議論していました。例えば、テーマは「結婚は妥協か否か」。渡辺先生は「結婚は自分にとって相手が最高だと思ってするものだ」という立

場、T君は「地球上の全部の女性と巡り会っているわけではないから妥協だ」とする立場でした。私は「そんなのどっちだっていいじゃないですか。飲みましょうよ。」と言った瞬間に二人から「黙っとれ、おまえは。」と一括される立場のない立場で、その後、二人は2時間ぐらい延々と議論していました。勿論、結論は覚えていませんが、今となれば、恋愛や結婚は主観ですし、地球上の女性と巡り終えるまでには年寄りになってしまうぜといったところが妥当な線ではないでしょうか。
 私は、同期のT君曰く、よせばいいのに大学院に上がりまして、その後2年間またまた合成化学教室の皆様にお世話になるわけですが、ある日、渡辺先生から、「ボーイスカウト活動の一貫で五島に行くけどT(先輩)と一緒に来ないか。釣りもできるぞ。」と誘われました。私は釣り好きでしたし、先輩のTさんも乗り気だったと見えて、即OKの返事をし、お手伝いをすることとなりました。その日、我々一行は福江に着くと更に高速艇で黄島に行き、そこでキャンプ張りの設置作業を手伝いました。一段落して、渡辺先生からニコニコ笑いながら言われた言葉に私は驚きました。正確には覚えていませんが、「今回の活動テーマはサバイバル。食い物は、米とカレーだけ。夕食のおかず担当は池沢とT。他にも何人か釣りするけど、おまえらが釣れんかったら、おかずないぞ。」といった内容だったと思います。熱心に作業しているボーイスカウトの少年達を横目に見ながら、この初めての島で何の情報も無いプレッシャーのかかる状態に対し、内心「先生、マジかよ。釣れなかったらやばいじゃないですか。勘弁してくれ。」と恨めしく思いましたが、Tさんは「よっしゃ、池沢行くぞ」と早くもやる気モードに入っており、私もその言葉を聞き、これはもう覚悟を決めるしかないと思い、急いで釣り場となりそうな磯をめがけて走っていきました。あいにく天候も悪く、曇り空で、今にも雨が降りそうだったと記憶しています。かなり心配でしたが、釣り場に着くと、第1投から、魚が釣れ、投げる度に釣れまくりました。幸運にも魚群(フエフキダイ)が集まってきているようでした。その後は、Tさんも私もここぞとばかり狂ったように釣りました。結局、フエフキダイとシーラの2種類しか釣れませんでしたが、夕食のおかずとしては十分量を釣り上げ、ボーイスカウトの少年達と渡辺先生に対し面目を保つことができました。無論、渡辺先生は念のため缶詰を用意されていたようです。今思えば、渡辺先生にはいい経験をさせてもらったと感謝しています。

○別れ 何はともあれ、このようにホットな人柄の渡辺先生のおかげで忙しくも楽しい学生生活を過ごすことができ、更に古川先生にお世話になった大学院を卒業後、個人的には社会人として12年目になり、1人娘も3歳と手がかからなくなり、一度、渡辺先生のところへ遊びに行こうかと年賀状を見ながら夫婦で話をしていた矢先に突然、先生の訃報が耳に入りました。
その日は、偶然、4年間の仕事の区切りの打ち上げの真最中で、だいぶ酔っ払っていた私は、携帯に掛かってきたS君の電話が、初めは冗談だと思いました。私にはどう考えても、あの元気な、しかもまだ十分にお若い渡辺先生がお亡くなりになったというのが信じられませんでした。少し時間が経って冷静さを取り戻し、帰路につくと、あちらこちらに電話をかけ葬儀場を確認し、翌日の朝一の便で私は長崎に飛びました。
 長崎に着いても、すぐに渡辺先生に会えるような気がしてなりませんでした。しかし、葬儀場に付くと古川先生を始め、懐かしい顔の方々がおそろいになっており、別れを現実のものとして受け止めざるを得ませんでした。ご焼香の時、渡辺先生のお顔を拝見しました。よく言われていますが、本当に眠っているようで、今にも「よう池沢、元気か」といって起きてきそうな感じでした。私は、祖母の時も、叔父の時も葬儀で泣いたことが無かったんですが、この時ばかりは泣けてきてしまいました。もっと早く会いに来ればよかったと。かえすがえすも先生に自分の家族を一度もお見せすることなく、お別れとなってしまったことが残念でなりません。



 10月14日に開催される偲ぶ会には、私儀、11月に妻が出産予定の為、出席できませんが、本原稿を寄稿することで、少しでも先生のお人柄をご出席の皆様に偲んで頂ければ幸いです。

2000年9月18日
池沢竜平


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