ハンガリー旅日記

富永 義則(昭44)

 最初にハンガリーの都市を経験したのは,オーストリアとの国境近くにあるヨーロッパ中世の雰囲気残る古都ショプロンで,一昨年ピリダジンの国際学会(1996年)が開催された時であった。この町の南東30km位の所に「ハンガリーのベルサイユ」と呼ばれ,ハイドンが宮廷音楽家として30年間を過ごしたエステルハージ宮殿がある。このショプロンへはウイーンから電車で行き,絵画で見たそのままのヨーロッパの大平原を感慨深く旅したのが思い出される。この先に一度は見たい,訪れたいと思っていたハンガリーの首都ブタペストがあるのに時間的な制約から行けず残念であった。それが今年の初め,ゼンメルヴァイス大学のマーチャーシュ教授から招待を受け再びハンガリーをこの9月に訪れる事になった。
 日本からハンガリーまでの直行便はなく,オーストリア,ウィーン経由で行く事になる。このハンガリー行きの直前までシーボルトの処方箋の再現等で多忙であり,その下調べもままならず出発した。機内での12時間近くをシーボルトの時代背景を知るため佐藤雅美著の「開国」を持ち込んでの機上であった。関西空港からウィーンまで飛び,そこでブタペスト行きに乗り換える。ウイーンであれほどいた日本人もブタペスト行の改札口にはほとんどいない。時間10分位前に女性の係り員が一人現われて,やっとこの場所に間違いなかろうと安心した。40-50人の乗客と共にチロリアン航空の飛行機に乗る。座席に着くやいなや昼食が出た。コーヒーが出たかと思うまもなく後片付けが始まる。するともう高度が下がり着陸体勢に入っている。僅か1時間の空の旅であった。機上から外を眺める余裕はそれほどなかったが,山らしきものは全く見えない。あのハンガリー大平原を見ただけであったが,アメリカのデンバー近くの広大な麦畑やとうもろこし畑等の幾何学的な大平原とは違い,ある区画は木々で囲まれている。道路や川の両側には街路樹があり,畑にも彩りがある。この調和がいい。ハンガリーで唯一の空港それも国際空港のブタペスト空港には,かなり広いがあまり機影はない。のんびりした税関を通り,ロビーに出るとマーチャーシュ教授とリープチャイ教授の出迎えを受け,日本からの12時間近くの旅も終わり,ややほっとする。
 空港からリープチャイ教授運転の車で,ブラジル大使館のすぐ隣りに大学が用意してくれたホテルに着いたのがハンガリー時間の6時頃であった。このホテルの目の前はハンガリー建国に携わった偉人や,ハンガリー王朝歴代の王達の14人の像がある英雄広場で市民公園になっている。この公園内には他に建物自体が素晴らしい国立美術館や博物館がある。このホテルまでの町中はウィーンを思わせる様な中世の面影を残している雰囲気がある。その道路の真ん中を路面電車が走っている。これら古い建物群の中に突然近代的な高層ビルが現われた。この建物がゼンメルヴァイス大学医学部であった。その他の大学らしい建物は決して新しくない。18世紀半ばの創立当時の建物らしいものもある。町中のビルの下の方には延々と落書きが続く。町全体にこの落書きが見られ,最初は何か異様さを感じた。よく見るとそのほとんどが文字である。英語でもない。ドイツ語でもない。マジャール語であろう。外国からの抑圧から解放された喜びを表しているのだろうか,それとも単なる悪戯なのだろうか。マーチャーシュ教授に尋ねても「bad boy」と答えただけで多くを語ろうとしない。しかし首都の中で消される事もなく,大通りの中にそのままになっているのが帰国するまで少し気になった。
 大学での講演,研究の打ち合わせ,研究室での論議等の合い間を縫ってできるだけハンガリーを見て回ることにした。
 ハンガリー王朝初代の王イシュトヴァーン1世の居城で,かつてはハンガリーの首都であったエステルゴムを尋ねる機会を得た。ブタペストからドナウ川の川添いを石畳の町で知られる観光地センテンドレを通り,それほど高くない山の中腹に古い城跡があるヴィシエグラードを経て約2時間位でエステルゴムに着いた。このエステルゴムはハンガリー王朝の始まった町でイシュトヴァーン王の王宮と大聖堂が残されている。約1000年前の栄光の跡がうかがえる。大聖堂は巨大な石作りで,その規模の大きさと,建築技術の高さには驚かされる。またその宝物館の金細工や工芸品,さらにそれらが凝縮されている歴代司教のマント等をみると当時の文明・文化の高さが想像できる。日本の平安時代の頃である。
 大聖堂のある丘を背にしてドナウ川を見ると流れを感じさせない川の向こうには,スロバキア共和国の森とそこに点在する家並みが見える。ハンガリーは生産力豊かな農業国であるが,それの買い手国であるスロバキアの経済事情が問題で両国を不幸にしている。第2次世界大戦以前はあった橋も今はない。ここに橋が掛けられる時,真にヨーロッパに春が訪れるのかも知れない。そう願わずにはいられない。このエステルゴムの地を訪れて初めて独特の文化を創ったハンガリーに深く興味を持った。
 この地を去る途中,先にも触れたヴィシエグラードの城跡に立ち寄った。アカシヤの木のある道路を車でゆっくり昇り城跡の傍らのドナウ川が見渡せる丘で車を停めた。ここから先ほどのエステルゴムからここまでの川沿いの景色が一望できる。遠くにドナウ川がほぼ直角に曲がっているのがわかる。あの有名なドナウベントである。ハンガリーではこの地方にだけに山があり,丘がある。その中をゆったりと曲線を描きながらドナウ川が流れている。その川にはいかだの様な長い長い船が浮かび,また時には高速艇が走る。丘の中腹にはレンガ色の古城があり,対岸の丘の向こうは延々と緑の平原が続いている。山の上には白い雲と青い空がある。この風景はここだけのものである。オーストリアで見たドナウ川とは全く違う。ここはやはりハンガリーの歴史を持つドナウである。
 ハンガリーでぜひ訪れたい所がもう一箇所ある。それはヨーロッパの中でも数少ない超高級焼き物で有名なへレンドである。最初文頭にも述べたショプロンにあったもので,19世紀中頃から今のへレンドに移ったと聞いている。ショプロンで見たへレンドの磁器が目に焼きついていた。ここにはリープチャイ教授が案内してくれた。この途中ハンガリー最大の湖,バラトン湖も見る機会を得た。へレンドまでの道のりはかなりあったが,途中の景色が日新しく退屈はしなかった。ブタペストのブタ側の丘を越えたところにはハンガリーの田園が広がる。ある所では向日葵畑が,また別のところでは小麦畑が,次には収穫の終わったジャガイモ畑が延々と続いている。バラトン湖の近くになると道路の両脇は一面ぶどう畑に変わり,ここがヨーロッパでも有数のワインの産地であることがわかる。これら広大な土地を維持するのには大型の農機具が必要だが,個人ではなかなか経済的に揃えられず,また国からの借り物は古く,その借料が高くてなかなか効率的に土地も機械も運用されていないと教授は嘆いていた。
 恒常的なものか,観光用かどうかは分からなかったが途中所々で市が開かれていた。そこにはハンガリー刺繍,ガラス細工,それに竹細工みたいな篭があり,農産物が売ってある。かなりのお客で賑わっている。途中田舎のレストランで昼食をとり休憩した。ここでも典型的なハンガリー料理のブラショーイ・アプローベチェニエ(ジャガイモの肉妙めらしき物)を食べた。昼間からこんなに食べきれない程の量である。こちらの人は,これにスープとサラダ,それにビールを飲むのだからすごい。
 へレンドの一枚の看板を見たのはブタペストを出てから3時間位経ったころである。かなり大きな町だろうと予想していたが,一枚の看板に導かれて着いたところは,売店が二軒とその近くに博物館がある小さな村だった。工場は見ることができなかったが,1,400人近くが磁器の生産に係わっているというから大きな工場であろう。博物館の入場料は確か350円(500フォリント)位だったと思う。ここには歴代のへレンドの作品が並べてある。古い,しかもこれだけのへレンドの作品を見るのは今回が初めてであり全く幸運としか言いようがない。有田焼の影響を受けているのが素人の私にも分かる。都会の高級店で見るへレンドの作品とは一味も二味も違う。あの大物がいい。あの気品がいい。白磁にヴィクトリ,インドの華グリーン,それにアポニーシリーズの鮮やかさに何とも言えない気品がある。売店に行ってもその値段に驚かされる。ほとんどがセット売りだそうである。ここまで来て手ぶらでは帰れない,記念にコーヒーカップを数個買って満足することにした。
 へレンドからケストヘイの白亜のフェシュテテイッチ宮殿に立ち寄り,中の樫の調度品に感激しながらここを後にした。あの広大なハンガリー大平原を右に見ながらブタペストへの帰路についた。
 ブタペストでも大いに楽しむことができた。いつでも無賃乗車ができそうなヨーロッパ大陸最初の地下鉄で王宮の丘近くまで行き,そこから日本橋と同様ハンガリーの出発点となっている鎖橋を歩いて渡り王宮の丘に行った。この丘からはドナウ川の対岸のベスト側が一望でき,遠くに宿泊しているホテルの近くの英雄広場の塔までもが見える。北の方にはオータブが見える。ブタペストは,それぞれ生活習慣や歴史,気質の違うブタとオーブタそれにペストから成っている。この丘のマーチャーシュ教会のステンドグラスは圧巻であった。王宮の中の美術館,博物館は凄いの一言で表現するしかない。この他にも色々経験したが紙面の都合上省略させてもらいたい。
 ハンガリーはイシュトヴァーン1世以来西欧世界の東端に位置するカトリック国として歩み始めるが,オスマン・トルコ占領下の3分割時代,ハプスブルグ支配の時代を経て,1873年のペスト,ブタ,オーブタの3市の統合,それに第1次および第2次世界大戦を経験し,1989年の体制変革後の今日のハンガリーとなっている。このような苦難の歴史を持ちながらの独特の文化をもつ民族意識の強い国民と感じた。税金が高い,農産物は豊作でも売る国がない,工業化が遅れている等々不満も聞いたが全体的に安定している。農村部に行っても全体が整っていて質素・清潔な感じがした。国民の96%以上がマジャール人であり,83%以上がキリスト教信者である。豊かなハンガリー大平原が在るかぎり独特の文化を成長,発展させていくだろう。
 ハンガリー料理,ワインも忘れられない思い出になった。機会があればもう1回行ってみたいところである。
 この機会を与えて下さったマーチャーシュ教授に感謝している。

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