(くす)しき出会い

中 村 不二男

第一章 出会いのいきさつ
 今年5月16日,アメリカから国際細胞学会出席のため来日した台湾出身の医師郭芳村一家と,その人につながりのある者11人が集まった。最初,天野氏より本会合の主旨についての挨拶の後,全員で故人の冥福を祈り1分間の黙祷を捧げた。歓談を交え合いながら晩餐を共にした。場所は長崎のイタリア料理レストラン。
 私も妻と娘同伴で招かれたのは,郭さんの兄郭芳徽(台湾から長崎医大に留学)の被曝死亡をめぐる,遺族と関係者の間で交わした書簡を1996年版『証言』第10集に発表したという関わりである。
 人は自分の生が終る時,生きていたことを誰かに記憶していてもらいたいという強い思いがある。遺族や縁者は臨終の現場を見届けるか,見届けた者の証言によって死を受入れる。ところが戦場での死や原爆被爆死は,そのことを著しく困難にしている。核による死は家族縁者が一度に亡くなるから,死の現場確認者は皆無となる。長崎の場合,山の多い地形に助けられて,生き残った者たちが,いまわの際に立ち会い,あるいは死体を探し回って茶毘に付すことがいくらか可能であった。
 郭さんと福井さん(長崎医専助教授)の場合は,幸いそのころ学徒動員で水俣工場にいたために原爆に遭わずにすんだ大野久高さん(長崎薬専学生,3人は浜口町の竹内下宿の同宿者)が,後で二人の死を知り,西田清さん(当時県立高女教員で竹内夫人の義兄)に聞いた被爆直後の二人の様子を詳細に調べ,手紙で台湾の遺族に書き送っていた。
 一昨年,私は有川の福井史郎家を訪れた折,史郎さんから「被爆50年に当たる昨年,突然アメリカから連絡があり,福井粂-の遺児の私を捜し当て,父に郭芳徽の臨終を看取り,埋葬の世話をしてもらったお礼と,兄の遺品でもあるなら……ということでした。その後,手紙のやりとりがあり,大野さんが書き送った手紙のコピーも届いて初めて父の被爆当時の様子を知ることができました。」と聞かされて,そのことを友人の証言の会の浜崎均さんに話したら「台湾からの留学生の被爆事例は今まで一度も取り上げてないので,是非それは書いてくれ」と言われ,福井史郎に相談し手紙など資料を取り寄せ「よみがえった空白の時間−爆死した医専助教授と台湾留学生−」という形で公開した。
 この『証言』第10集はアメリカの郭芳村氏にも送られた。
 昨年,福岡の天野さんから電話がかかり,「『証言』がアメリカから送ってきました。50年前の自分の手紙が雑誌に出て驚きました。お願いですが,今年発行の『長大薬学同窓会報』に,私の手紙の分を載せたいと思いますので了承して下さい」といわれた。私が断わる理由はなく,手紙は再び『長薬同窓会報』第37号(1997年)に掲載された。
 集いの席の話題は互いの過ぎ越しや,現在の暮らしの状況,来日しての日本の印象が主であった。生き残った西田邦朗さんには子どもはいないという。福井先生の子どもが生きていることを知らなかったと話す芳村氏,明日は有川に福井先生の墓参に渡ると聞いて21時に散会した。
 終戦直後に,台湾と五島の福井家に送られた弔慰文を,50年後に読んだだけの未知の発信人天野さんとの文通が始まり,天野さんは私の慢性肝炎のことを知ると,自分も経験して治癒に成功した薬物や検査のこと,現在使われている薬の成分,治癒効果を示す薬剤師ならでは入手できない資料を何枚もコピーして郵送してくれた。筆まめで親切で細やかな心に接しているうち,この性格が若い日に,郭さんや福井先生のことで,あの混迷で秩序が失われた世相のなか,連絡をとることの困難な台湾に詳細な文書を届け,福井家に学徒動員での慰労金の中から香華を同封し,追悼の手紙を書かせたのだろうと,考えさせられた。
 被爆体験のない私が思わぬ成り行きで『証言』に初めて記録を書くことになったのは,一瞬にして運命を変えられた遺児福井史郎のその後のことを知っていたからでもあるし,いまわの際にもいたわり合う人達,偶然に生き残ったものが遺族に友人の末期の状況を調査し報告する奇特な行いにうたれことにあるようだ。
 翌17日は心配された天候も回復し,郭芳村一家は空路五島に渡り,福井家に2泊されたとのこと。「どんな料理でもてなせばいいか,一番気がかりでしたが,何でも喜んで食べてくれました。初めて日本人の家に招かれ,離島の海と山の自然に接することも初めて体験したと,家族一同心から喜んで帰って頂きました」と,後日史郎さんから電話で報告があった。
 互いの生死も知らず過ぎた50年の歳月のあとで,奇しくも出会い,再びはあい会うことのない一会の集いで私は遺族や関係者の胸の痛恨の消えない熱い火に触れた思いがしたのだった。


第二章 長崎医科大学への感謝と謝辞
謹啓
 私の兄,郭芳徽の原爆死亡通知を3ヶ月後に受信しました。母は無残な死亡の長男を悲しみ,3年間泣き崩れていました。遺骸の一部は,長崎の方向を望む高台の故国,嘉義河畔の寺に納めて供養していました。父は死亡後の仮埋葬跡地の確認と慰霊碑の建設を私に託して亡くなりました。
 53年後に,長崎医大関係者,並びに旧知人特に中村不二男様が50年にわたる資料をまとめられ,やっと亡父の要望が叶えられました。
 私は現在アメリカ,ワシントンに在住しています。半世紀にわたる最大の念願が実現し,また,清木教授,富田恒男,柏司,小寺健次郎,寺田寿男,椎名章夫,池田保彦様各位の記録,証言,書簡により,一瞬の悲惨な壮絶を極めた当時の目に余る惨状が認識できました。カトリックの聖地浦上のグビロヶ丘にて,全く不慮の死を遂げましたが,兄も天国で主イエスキリストの御許に安じていると思いますと,残された遺族も心よりの冥福を祈り安心しています。
 昔から(約427年)オランダ,ポルトガル,スペイン,イギリス,ロシア,中国などと交流のあった国際都市,長崎の名所,旧跡の見学,観光ができ有意義でした。
 日本,長崎医大の関係者特に相川忠臣教授には,大変ご迷惑をおかけしました。心より厚くお礼を申し上げます。遥か太平洋を越えアメリカ東部ワシントンより,家族一同,満腔の敬意と感謝の気持ちをお送り致します。誠に有難うございました。
 最後に,長崎大学薬学部同窓会の益々のご発展を祈り,併せて世界の平和と安定に尚一層のご協力をお願いして,お礼の言葉にかえます。 多謝
(1998年8月9日)

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