心に刻む碑(いしぶみ)のために

天野 久高(昭22卒)

 太平洋戦争終戦の昭和20年9月卒業の先輩諸兄は,長薬108年の歴史の中で特筆される学年である。戦争の激化に伴い,学徒動員で約10ヶ月間,武田化成の吉富,田辺製薬の小野田両工場に出動し,帰学後間もなく原爆に遭い,学友23名の尊い生命を奪われた,この上も無く痛ましい全く気の毒なクラスであった。被爆後,奇跡的に生存された数名の方は誠に貴重な生証人である。やがて近々,人生の終楽章に入られるが,有史以来の壮絶無比な悪魔の災難の記録を同窓会誌にも残して頂きたいものである。
 被爆10周年記念同窓会誌「追憶」中に寺戸寿雄様の“原爆体験記”によると,防空壕の奥行きが浅かった為にもう少し深くする為の作業を医学,薬学交替でやっていた……との記録を見出した。当時,医専2年生は,衛生学講堂で細菌学の講義中であれば,座席と共に白骨化して到底個人の識別は出来なかった。しかし,恐らく彼は,自主的に壕掘りに協力していたので,遺体は確認され,近くの射撃場入口の左端に仮埋葬されたのではないかと推察される。多分同じ下宿の福井医専助教授からの応援の強い要望に応えられたのであろう。
 現在,世界中で核兵器の全面廃止が叫ばれている。しかし,核保有国が多数あり,いつ突発的に実施されるか全く予測のつかない時代である。全世界の人類の平和の為,改めて全面禁止,全面廃絶に向けて世界の有識者の模索と完全実施に向けて,尚一層のご努力をお願いしたい。
 昭和19年頃の竹内家については,毎週土曜日の夕方,浦上天主堂より微かに聞こえるお告げの祈りを込めたアンジェラスの鐘の音に誘われて,クリスチャンの方々約30人位,白く輝く薄絹のレースのヴェールを前髪にかざして集まり,ミサ(カトリック教の礼拝式)が行われ,アダージョ調の讃美歌の歌声が,静かな余韻をもって2階にも流れていた。
 善良なクリスチャンの医学徒,郭芳徽君が戦争とはいえ,キリスト教国の原爆により,無残な爆死を遂げられたことは,主イエスキリストの御心に叶うものでなく,天国の神の御許に近づけるものかと悲しく感じられる。アーメン。
 しかし,長年の念願だった被爆後の仮埋葬地の再確認と,遥かな異国の地の慰霊碑への献花を済ませ,看護と仮埋葬に大変お世話になった人々の遺族に心よりの謝辞を述べ,記念のメダルを贈呈された。在日中は,関係者の温かい楽しいもてなしに喜び,無事長崎慰霊巡礼の旅が終了し,今は亡き天国の兄と共に家族一同心の安息を得られた。
 永遠に続く長崎大学薬学部の全く予期せざる悲惨な歴史を残すため,1日薬専跡地と,記念すべき今は無き数名の命を救った防空壕の跡地を石碑で確保して頂きたいし,医学部本部の了解は得られることと思っている。規模などは,疎開先の諌早市小野島の旧学校跡地にある記念碑程度で充分ではないでしょうか。九大医学部病院の敷地内には,豊臣秀吉の点茶記念碑があり,対馬厳原の小茂田浜でも戦没者の慰霊碑が建ててあった。
 日本を守るための敗戦とは云え,不運な被爆死で尊い生命を,一瞬に奪われた多数の教職員,学友諸君の安らかな成佛を願って,永遠に供養の燈火をともし続けなければならない。今後,教授会,同窓会などで充分ご検討願いたい。
 全く消滅した旧薬専には,土地造成工事後の熱帯医学研究所新築により,昔を偲ぶ縁
(えにし)がひとかけらも無く,ただ,狭窄射撃場の監的用防護擁壁ブロックが3段程残っているのが,僅かに郷愁をむなしく留め,一抹の寂寥を感じた。
 旧薬専跡並びに防空壕跡地について,事務局大河内様を通じて,長崎医学同窓会の宮崎様に調査方をお願いしていた。8月7日,相川教授より電話で跡地が略確定したと連絡があった。受信次第早速FAXでアメリカに送信した。
 来年の同窓会誌には,会員相互の絆を深め,戦争を知らない後輩の為にも,被爆後,奇跡的に現世の生を享受された方々が50数年後に,いかなる人生観,死生観を得られたかに就いて,是非ご投稿をして頂きたい。数名の諸先輩の方々には,大変ご迷惑でご無理なお願いではないかと思いますが,宜しくお願い致します。

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