平成10年度クラス会

冨田 恒夫(昭20)

 私たち昭和20年組は,原爆死亡を含め,すでに鬼籍に入りし者37名,現在生存わずか13名という,まことに侘しいクラスである。昨年のデータに「唐津一泊二日の旅,参加者9名,欠席6名のほとんどが病気療養中」とあることから元気な者9名ということになるが,この数値がいつまで続くか疑問であるし,齢72歳ともなれば参加者が減ることはあっても増えることはなかろうと,今年は,一番気候のいい4月に2泊3日の行程(神戸・京都方面)で行うことになり世話役を仰せつかった次第である。
 平成10年4月5日(日),午後2時,新神戸駅南出口(タクシーのりば)に9名(池田,磯部,小串,小寺,高橋,寺戸,松尾,村松,冨田)および3夫人(小寺,松尾,冨田)が元気な顔で集まった。朝から快晴の小春日和,桜満開の神戸駅を貸切観光バスで出発,表六甲ドライブウェイ,凌雲台展望台,六甲山項小休止ののち,裏六甲を経て有馬温泉郷まで2時間半の快適なドライブを満喫した。夕刻5時すぎ遊月山荘に着くと,ちょうど桜花欄漫の山桜がライトアップに映えていた。山峡のせせらぎの音を聞きながら露天風呂に浸れば旅の疲れも一変に飛び去る思いであった。6時半から宴会。まず,亡き恩師と級友に黙祷を捧げたあと,懐石膳に灘の銘酒,丹波の冷酒が加わって宴酣となる。9時閉会となり,微醺を帯びつつ,温泉につかる者あり,あらためて集い,盃を重ね,深夜に及ぶ者ありであった。夜半から小雨が静かに降りはじめた。
 4月6日(月),朝9時,ロビーに集合。ここで,高橋君が思い出の日章旗を披露した。学徒出陣で士官学校入校に際し皆が寄せ書きしたものだった。私たちは,そこに亡き友の名前を見つけ凝視し,立ち竦む思いであった。恩師江口先生を始めとし,荒木,池田(敏),重本,米田,陶山,松本(登),山崎,小曽根,松本(忠),多田,宮本らの名前があるではないか。一瞬,原爆の直撃を受けた長崎医大基礎構内防空壕周辺の惨状が眼に浮かぶ。
 しばし,思い出にふけったあと,ホテル前に待機中の京都ヤサカバスに乗車,10時半京都に向けて出発した。西宮I.C.から中国名神ハイウェイを北上,12時すぎ京都I.C.に至り京都市内に入っていく。月曜とはいえ,桜満開の京都は人出も多く,車はやや渋滞気味。それでも馴れた運ちやんの車さばきで,予定より早く右京区太秦の広隆寺に着いた。雨に濡れた石畳を霊宝殿に案内された。ここには天平から鎌倉に至る仏像が収められ,正面に国宝第一号の宝冠弥勒菩薩半跏思惟像(124cm,赤松材の木造),その横に宝髻
(ほうけい)弥勒菩薩半跏思惟像(90cm)が立っていた。一丈を越すと思われる木造の千手観音立像,不空羂索観音立像があたりを圧し,香煙の中に清楚な白百合の一輪が生けられていた。如何なる言葉も不用なほどの静かな微笑と,これほど人間的な美しさを示した像は他にないといわれる国宝第一号であった。
 仁和寺の八重桜は未だ雷とあって,バスは立ち寄らず,さらに竜安寺,金閣寺を横に見て北大路に入り高野橋を右折し高野川を南下すると,そこは数キロにも及ぶ素晴らしい桜並木であった。一同の希望で丸山公園のしだれ桜を見物し,ホテルフジタ京都に夕刻5時到着した。ホテルでは全室とも鴨川に面し,小雨降る東山連峰も美しく望まれ,さらに京料理と,伏見の銘酒に酔い痴れて,雨の京都の一夜は一同満足げであった。
 来年は,再び長崎の地でクラス会を開く予定になっているし,いま病気療養中の人達が回復されることを願うとともに,一同,夫人同伴で出席する約束をして解散した。

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