追  憶 (その2)

原爆前後 昭和19年4月−昭和20年8月9目−昭和22年3月
昭和22年卒 伊藤好古

 これから,数日の後,彼は浦上原頭に原爆が炸裂し,若い生命を散らしたのである。
水俣の工場に帰った後,連日連夜の空襲で工場は大半の機能を停止し,我々学生の寮も直撃弾を受けて倒壊し,2名の学生が負傷した。水俣の町外れにある湯の児温泉の旅館に暇退避して数日後,ラジオ放送で終戦を知った。
 その夕刻,工場側の配慮によって,一隻の機帆船を借り,学生30人が乗船して,長崎に向け天草灘を北上した。途中,暗夜の海を迷走して16日未明に三角港にたどり着いた。北九州方面に家のある者は,小舟で三角に上陸し,互いに手を振りながら別れあった。その中には熊本の空襲で母を失った者もいた。
 船が島原半島方向に行くうちに,陸岸が見え,遠浅の海を徒歩して上陸したのが,北高湯江の海岸であった。村の駅にたどり着くと,そこには被爆者が群がり,その傷の異臭が立ちこめ,大変悲惨な雰囲気で,家族の安否を考え暗濾たるものがあった。列車に乗り込み途中,諌早駅で父の友人から家族の無事を聞き,一応の安堵感と共に,帰心矢のごときものがあった。列車が長与,道ノ尾と長崎に近づくと,周囲の緑は徐々に褐色に変わり,異様な光景となった。列車は道ノ尾付近で停車し,数時間後,長崎まで乗り入れるとのことで出発徐行しはじめた。行くほどに焼野ケ原となり,浦上地区に入ると遠く稲佐山,金比羅山,城山方面まで,灰褐色の瓦礫の原野であった。大橋の手前から最徐行して進んだ。大橋の電車終点の線路には,黒こげの死体が横たわり,全くの死の町の中を列車はゆっくりと通り過ぎて行った。
 長崎駅付近で停車、乗客は皆降り立った。学生は整列し,引率者秋山助教授の解散命令により,各自帰宅することになった。駅前広場らしいところに立つと,旧長崎駅の上品な建物は面影もなく,真昼の長崎の街は死に絶えたぬけがらの町であった。蛍茶屋方面に自宅のある者が,数名一団となって家路についた。途中,駅前の大黒町付近と思われる焼け跡の焼け残りの塀のそばで,一人の老婆が地面に坐り込んで何やらつぶやいていた。笑ったり,泣いたり,もはや狂気の世界に行ってしまった年寄りに,何もいえず立ち去るより他はなかった。
 壮麗だった中町教会の無惨な姿を横に見ながら,諏訪神杜前まで来ると,向こうから頭をボロ布で巻き,顔面血に染めた人がかけ寄って同級生のYの手を握って「ツトム!みんな死んだぞ!」と叫んだ。彼の兄の医大生だった。友の両親,妹の死を街頭で聞き,いたたまれず,皆はYをそのままに置いて,またトボトボと歩き出した。
 その時,私は急に友人のIのことが気になってきた。傍らにいたTに「Iの家に行こう」と言った。途中,Tが実家に寄ってくるのを待って,蛍茶屋の坂をIの家へ走った。玄関で「I!」と叫ぶと,奥から彼の父上が走り出て「伊藤さん,おそかった!」と,数分前に絶命したことを告げられた。ドヤドヤと奥の部屋へ走った。布団の上に,目を見開き,口を開けたIが横たわっていた。「貴様だけ,何故!」と私は彼をなじった。その裾の方では,彼の祖母が小さな背を丸めて,白い布を無中で縫っていた。多分,彼の帷子であったろう。
 過日,私に続いて動員を志願し,却下された彼は,その日,帰宅してその無念を父母に語って涙したと,彼の母上が話してくれたことがあった。
 以来,私は毎年2回は彼の家へ行く急坂を登る。あれから40年になり,あの日かけ登った坂を息切れに休みながら,登る。あの時20才の青年も,もはや60才である。数年前のある日,老父は私をデパートに誘った。戦没学徒に対して初めて年金が下付された時に。「死んだ一人息子の初月給」といって,老父は50過ぎた私に背広を作ってくれた。息子の死以来,酒量の増えていたその親父も,昨秋,肺ガンで83才の生涯を閉じ,息子のもとへ逝った。』
 長崎県病薬会誌(昭和61年) さか道 伊藤好古記より

 長崎に帰り,先づ友の死にあい,その後帰宅して,翌日からは,毎日学校に残った同級生の消息を訪ねて歩き回った。その家族もほとんど戦災に遭い,その住所に住む人もなく,なかには一家全滅の悲運にあった人もいた。
 ある友の伯父さんを訪ねあてて,その最後の有様を聞き,矢上まで歩いて畠の隅の土饅頭に埋められたのを見て涙した。彼らの生死と遺族の住所を全部調べ終わったのはそれから随分あとのことである。
 その問,学校の焼け跡には,亡き肉親をさがし,その最後の地を見るために医大,医専,看護学校,薬専の学生の家族が沢山みえられ,立ち話にそのお話を聞くたびに,人生の無常を想い続けた。
 9月末まで,焼け跡通いが続くうちに,学校が佐賀市の仮校舎で再開されることになり,10月15日,佐賀市上多布施町の旧日東航機青年学校跡に集合した。原爆生き残りの教授を中心に復員してきた人たちにより,教官,事務職等が構成され,実習設備もなく,教室3,講堂,事務棟,寮2棟,食堂で不自由な生活が始められた。
 敗戦前からの食糧難はますます悪化し,それに加えて猛烈なインフレに見舞われ,その生活はまったくドン底の状況であり,学業も寮の食糧の状態によって休暇となったりした。学生は付近の草地で食べられそうな草々を集め,蛙,蛇等も捕えて寮の炊事場で食用にした。当時の佐賀新聞の一隅に,角帽をかぶって蛇を追う絵入りで記事にされたこともあった。佐賀地元の先輩,県知事等の原爆被災の学生に対する温情は,今でも忘れ難いものである。
 そのうち,軍関係学校退学者,京城薬専より転入者,復員軍人等の編入が行われて学生数も増えていった。薬専の佐賀設置の運動が佐賀県,同窓生等から起こり,佐賀出身の教官等の意向もあり,その方向に動いたような気配があった時,長崎復帰の意見も次第に高まり,在長崎の同窓生の動きも始まった。
 学生の大部分も,長崎復帰に動き,自主的に長崎県内各地に適地を模索し,川棚,大村,諌早小野島等に学生代表がでかけ,特に小野島の場合,同様な計画を有した長崎青年師範学校に出向いて,その学生代表と交渉もした。学校側の動きは,当時の学生が知るところではないが,当時の薬学専門部長は辞任された。
 昭和21年秋には,小野島仮校舎確保のため,3名の学生が小野島飛行場跡の旧進駐軍施設に先発移住し,22年1月,長崎薬専はついに,長崎の地によみがえったのである。そして,3月,私たち学生白らが作り書いた「長崎医科大学附属薬学専門部」の門標をあとにして,学園を去った。
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2003年 原爆慰霊碑清掃

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