追  憶

原爆前後 昭和19年4月−昭和20年8月9目−昭和22年3月
昭和22年卒 伊藤好古

 昭和19年4月から,22年3月までは,日本の敗戦をむかえて,国家存亡が問われた重大な時期であった。
 特に,20年8月9日,原爆により母校は壊滅し,教職員学生46名が校内で爆死あるいは,負傷後死亡し,長崎医科大学と共に,薬学100年の歴史の中で,最も悲惨な頁を綴ったのである。このことは,我々が終生忘れ得ぬことであると同時に,後世に伝えて永く平和の礎とすべきものである。
 昭和19年,入学した頃は,戦局はもはや不利となり,前線各地の玉砕の報などが伝えられ,一般の生活も,欠乏を増し,学校にもその影がしのび寄っていた。その頃,高等学校,専門学枝の3年生は,卒業を繰り上げて9月に卒業し,ほとんどの者が軍隊に入って行った。
 校内では,軍事教練の時間が増加し,激しさを加えた。学生は食糧難の空腹に耐えながら講義を聞き,実習に励んでいた。また,当時,中学生以下の者は「決戦非常措置要綱」により,軍需工場に動員されていたが,薬専の3年生は,山口県小野田の田辺工場,大分県中津の武田製薬工場に動員されていた。昭和20年5月には,2年生にも同様の動員命令があり,熊本県水俣の日本窒素の工場(当時,機密保持上,熊第七○四二工場と称されていた)に,配属を命ぜられていた。
 前に動員中の3年生は6月に動員解除され学校に復帰し,代わって2年生が水俣に出かけたのであるが,この交替が後日両学年の命運を分け,3年生の大部分は学校で爆死し,2年生は残留していた9名が死亡したのである。
 この厳しい時代にあっても,原爆前の学園生活は,苦しい中にも楽しいこともあり,1年生の時には動員卒業繰上げを予想して講義,実習は質量ともに増強されたが,朝から夜までの学校生活の中で昼休みの薬草園での語らいなど,友情を保つのには充分であった。
 講義,実習,軍事教練の他,空襲に備えて防空壕が掘られていた。さまざまな時間をさいて,学生達は作業に汗を流した。防空壕の場所は,薬専校舎正面の丘の裾であり,物理学の清木教授の設計指導で掘り始めた。物理学者の設計らしく爆風の入るのを避けるために,まず壕正面に狭く深い3m余りの排水路兼用の溝を作り,その溝の低部側面から丘の中心に向かって数本の壕が延びる形であり,全く難工事であった。 この特殊な形の防空壕は,後日原爆投下の折りに掘進作業中の教授1名,学生2名の生命を救ったのであり,その1名が清木教授であったことは,その設計が強烈な爆風と放射線を防いだものであり,実に不思議なめぐりあわせを感じる。その日,壕の前では,昼休み前の作業中の3年生の大部分が被爆し,その惨状は涙なくしては語り得ないものであった。
 旧長崎医科大学原爆犠牲者遺族会編の「原爆思い出の手記集忘れな草」には,「薬専学生遺族の手記」として,13名(荒木一夫,石田憲敬,岡本省三,小曽根邦弘,田中博,橋本慶治,村山直行,一番ケ瀬忠政,郡家淑郎,安本道男,吉田一馬,中川原哲夫,池田敏明)のご遺族の手記が載せられている。
 前述のように,3年生40名のなかでも,勤労動員と残留研究補助の2群に別れ,他の群の当時の状況は正確には判らないことが多い。例えば,水俣に動員中,残留した同級生(爆死)から便りが来て留守中の学校の様子を知らせてきていたが,その手紙類も寮が空襲により爆撃を受け,総ての物が失われてしまった。残留者の中で,大学病院下の下宿で被爆し,奇跡的に生存した唯一人の話を聞く機会があり,次の様なことが,学校内で起こっていた。
 『水俣に動員された仲問が,工場で連日激しい空襲を受けながら軍需産業に従事していた頃,長崎の母校の分析教室に陸軍の憲兵が数個のチョコレートを持ってきた。それは,当時米空軍が長崎地方に撤布した謀略用のチョコレートである。軍はその中の毒物を検出することを指示した。そこで友人達は,乏しい研究資材を使って分析し,検体に毒物(特に砒素化合物)の存在しないことを報告した。しかし憲兵は「福岡地方に投下されたものは,九大の分析の結果,毒物を検出した。長崎の分析の結果は大丈夫か」と疑うのである。同級生の1人は,それを聞いた瞬間,残りのチョコレートを口へほうり込んだ。グッとのみ込む彼を見て,憲兵は去って行った。その数週間後,長崎に原子爆弾が投下され,母校は一瞬にして灰となり,残留要員の友人10名は九死に一生を得た1名の他,全員爆死したのである。
 先日,この生き残りの友を久しぶりに訪ね,彼の新築の家で「あの時のチョコレートの味は……」などと,一夜を語り明かしたのである。』伊丹陽一郎氏の話 薬事新報(1976年)過酷な青春・伊藤好古記より
 7月もなかば過ぎると,戦況も日ましに悪化し,工場も連日の爆撃で各所に被害続出し,生産もほとんど停止状態になり,学生は復旧作業に努力していた。その頃,毎日生活していた寮も,爆弾の直撃を受けて倒壊し,付近の防空壕にいた学生2名が負傷した。その日,工場で作業中,空襲があり,全員工場の裏山に掘られた巨大な壕に避難し,警報解除で外に出ると工場各所は破壊炎上し寮も破壊されたと聞いた。病気で作業を休んだ2名のことが気になり,皆で駆けつけてみると建物は完全に倒れ,その前にあった防空壕……これは直径1m,長さ1.5mのコンクリート管を3本並べて土にうめたものであった……の場所には半径5mほどのスリバチ状のクレーターが出来て,その縁にコンクリート管の残有亥が残っそいた。2名は多分これに入っていたはずだと,残念ながら彼らの死を悼み皆で黙薦をしていた。その時,海岸の方から,頭から血を流した1人に肩をかして,2人がヨロヨロと歩いてきた。悲しみは喜びにかわり,工場の病院で治療を受け,タンカに乗せ工場のトラックで峠を越えて湯の児温泉の旅館に入った。
 その前,9日には朝から艦載機の来襲で機銃掃射を受け,近くの山の森に逃げ込んでいた。その時,長崎の方向の空に,ポッカリと桃色の雲の丸いかたまりが気球のように浮かびあがった。空襲が終わり,'町に下ると何処からともなく,長崎に新型爆弾が落とされ被害があったと聞いた。しかし,戦時下の情報管制下のことで,それ以上は何もわからずにいた。
 『8月2日から4日まで,休暇をもらって,満員の列車に乗りついで,長崎に帰った。友人のIは早速私を訪ねてきて,苦労話がはずんでいた。その時,空襲警報が出て,長崎が珍しく攻撃を受けた。私はIと2人で風頭山に駆け登り・道ばたに伏せて長崎港の上空を敵機が突っ込むのを見ていた。私には日常の出来事であったが,彼は余り経験がないことだと驚いていた。
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2003年 原爆慰霊碑清掃

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