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市川先生を偲んで

 


昭和33 年卒業 工藤二郎

 市川さんと渡辺さんの想い出を残したいから、写真等をお貸し願いたいとの手紙が野球部から届いた。市川さんの、学生時代の写真なら相当数撮っているので、何とかなろだろうと思ってフイルムを探してみた。
 カラー写真はまだ普及していなかった。当時の写真は黒白の要素で何かを表現しなければならない。光と影、その階調の美しさ、及び構図の面白さが相俟って優れた写真がつくりだされる。
 市川さんは、これらの要素をすべて備えた人だったと思う。彼が光り輝く人物であったことは誰もが認めている。しかし、その輝きは彼自身が持つ影によって、弥増したように思えてならない。だが彼はその影を人に気付かせることはなかった。
 市川さんは、私より一週間早く生まれた。昭和一桁最後の双子座である。共に戦後間もない頃父親を亡くし、母親の手で育てられている。彼が奉天から引揚げて最初に住んだ別府市・野口は、私のホームグランドである。環境が似てくると考えも似てくる。言葉に出さなくとも、何かを判り合える友であった。
 先ずは、晴れがましい舞台にいる市川さんの写真をと思ったが、見つからない。晴れがましくない私が、そんな場所にいる筈がないから仕方がない。
そうだ! 例外があった。 九薬連を結成した時は一緒に活動した。あの時の写真がいい。当時は熊薬との交流しか無かった。九大も交えた組織を作ろうと、市川さんを中心に西枝海先生(九大薬・長崎薬併任教授)を頼って話を進めた。結成式の時、私は流感で高熱を出していたが、愛用の二眼レフで三大学結束の瞬間を撮り続けた。
 市川さんが、その後に九大で勉強し、井口先生を知ったのも何かの縁だろう。彼は出会いを大切にする人であった。その九薬連結成時のフィルムが一枚もない。どうやら、関係者に貸したままになっているらしい。野球部からの写真要請にはCD−Rで渡そう。返却不要。便利な世の中になったものだ。
工藤さんの写真集もご覧ください。
 市川さんは秀でたスポーツマンである。奉天ではスケーターとして、帰国後は陸上スプリンターとして、そして中学時代から野球の名手として名をあげてきたと聞いている。長崎東高では一年生からレギュラーを張ったという。私も野球が好きだから、一年生の時から応援に行った(大分県の山峡の高校・・連戦連敗で廃部となった)。一度ユニフォームを着て球投げをしてみたいとの念願が適ったのは薬学の二年になってから。今泉先輩が四年生で、球拾いをしろということで入部させて貰った。初めてグランドに出た時に驚いた。市川さんの送球が曲がってきて捕球出来ないのである。右へ・左へと予測もつかない、切れの良い変化球をスピード豊かに投げてくる。練習試合で市川遊撃手からの一塁送球を顔で受けたことがある。確信をもつて出したファーストミットの横から突然ボールが現れ、顔面を直撃した。私の顔が変形したのは、そのせいだと思っている。
 市川さんは太洋漁業や三菱造船から声が掛かるほどの遊撃手であった。軽快なフットワークと球捌きは流石と唸らせるものがあったが、恐怖の送球だけは何とかして欲しかった。捕球すると殆どステップせずに、スナップを効かせてピュッと投げたボールが突然曲がりだす夢を、今でも見る事がある。
写真  彼のバッティングも一流だった。殆どの試合は一番・西脇、三番・市川、四番・角田の打順が組まれていたと記憶する。西脇会長は選球眼の良さと走塁の上手さが際立っていたし、角田さんの長打力は天性のものがあった。しかし中距離打者の市川さんには確実性という大きな武器があって、抜群の信頼性を誇る中心打者であった。
 ユニフォームの着こなしも上手かったが、普段もお洒落だった。彼の家の近くに長谷川シャツという専門店があり、夜の遊び着はここで誂えて作った。
私も付き合って作ったが、同じような物を着ていても、彼だけがモテテいたような気がしてならない。
 「昭和32年度学友会予算書」が手元にある。褐色に変色したB4判の紙2枚にガリ版刷りでぎっしり書き込まれている。体育部活動費総額4万200円を野球班・篭球班・山岳班・庭球班・卓球班で取り合っている。野球班代表者は市川さんで、爽やかな弁舌と対外試合の実績を武器に16950円をゲット、もちろん最高額である。内訳は ボール2打3600円・バット15本6750円・グローブ4600円・キャッチヤメン2000円となっている。文化部活動費は2万3000円で写真班・映画班・音楽班・新聞班・文芸班で取り合って、私が代表の写真班が最高額の6000円を獲得している。特別奨学金3000円の時代である。
 当時、殆どの野球部員は熊本遠征を楽しみにしていた。伝説となっている「文化劇場」・味噌天神にあった居酒屋「紫煙」・鶴屋の近くにあったキャバレー「黄金の腕」・デートには喫茶「山小屋」など楽しい場所が沢山あった。
その熊大薬学部に市川さんが転出したのは昭和37年である。その二年後に、私も会社の命で熊本に赴任して、新築されたばかりの市川邸から数分の所に家を借りた。その時、初めて市川夫人・則子さんにお会いしたが、スラリとした美人で、何故かホッとしたことを覚えている。厳格な「おばあちゃん」(市川さんの母親を我々はオバアチャンと呼んでいた)も元気で、私の妻や子は勿論、偶にやってくる女房の母親もいろいろと人生の教えを受けた。
 昭和41年、市川さんが熊大薬学部助教授になられた年に、角田さん、西脇さんも集まって熊本で遊んだことがある。阿蘇・湯之谷のゴルフ場でプレイしたが、当時ゴルフをしなかった市川さんも一緒に回って写真を撮ってくれた。それを自ら暗室に入り、四つ切に伸ばしてくれた。今も大事にしている。
 昭和57年、福山大学に薬学部が開設され、教授として招聘される。医療薬学の道を模索する傍ら野球部を指導し、全国学生軟式野球選手権大会に2度出場している。
 昭和60年、長崎大学医学部教授として帰って来てからの活躍は、ご承知の通りです。
 平成12年8月18日、長崎自動車道・川登PAでバッタリお会いした。盆休みを終えて、昼からの教授会に出席すべく、帰路を急がれているところであった。顔色もよく、「退官後はしばらく静養するつもり、それを楽しみにしている。」と語っていた。横にいた奥さんが嬉しそうに笑った。
 西脇さんから「8月31日、市川さんが緊急入院された。」とEメールが入った時は信じられなかった。何一つ病気したことのない人、十日前はあんなに元気だった人が何故?

 入院中、一度だけお見舞いする事ができた。枕元の机上に赤い野球帽があった。

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