長崎大学名誉教授 高取先生と漢方
(先生の思い出ふたたび)

山口 廣次(昭11)

 この稿は昭和55年8月15日九州薬事新報(主幹郡家邦吉……昭和11年長大薬卒先年他界廃刊)に掲載したものを再掲したものである。
 昭和55年7月8日15時19分巨星遂に墜つ。臨終は一点の苦しみもなく眠るが如き昇天だった由。同日14時27分危篤の報に接し,平常着のまま飛び出して心はせくもののどうしようもなく,早いはずのタクシーがこれほど遅く感じたことは今までになかった。4時ちょっと前,先生宅に着いたが遂にお目にかかれなかった。
 号哭すれどせん方なくご家族へのお悔みもそこそこに,まず大学の同窓会副会長河野教授(当時)に,全国の県薬会長松尾先生には県内の関係各位への連絡をお願いした。
 本年の3月,内科医の愚息と共にお見舞に参上した折り,愚息の診断では先生の寿命はあと2,3か月位ではと言っていたので覚悟はしていたものの残念でならない。小生,水曜日が母校への出講日で朝早く伺って30分位四方山話をし,月1回くらいは講義終了後,奥様手造りの皿うどんにビールを酌み交わしつつ生薬,世上の話に花を咲かせるのが無上の喜びでもあり又,楽しい一時でもあった。
 このたび,彩色日本の薬用植物図鑑の第2刊を広川書店の社長に依頼され,日夜寝食を忘れてのご執筆,これが幾分寿命を縮めたのは事実。先生は学者として大事業を終え,その業跡に満足されたことだろうが,本の未完成がただひとつの心残りで,ご他界の間ぎわまでその言のみだったとか奥様から承り涙にくれるばかりだった。でも8月から9月にかけて本も出来上がる由,河野教授に広川の社長が伝えたと聞いて安堵した。小生も解説の方を受け持っているし,広川さんに先生の忌明の8月24月までに間に合う様にとお願いしている。
 告別式は自宅で行われたが,先生の生前の徳を慕って参列する人々は数百を数え,実に盛大であった。
 長大の学長貝島兼三郎先生,同窓会長谷口さん,母校の生薬教授河野信助先生の弔辞に,故人の人柄,学者としての足跡その他すべてが言いつくされていた。
 有徳の人には天も嘉するのか,梅雨期で前日は雨だったのに告別式は晴れ,火葬が終わりかけた頃はポツポツと涙雨。
 私と先生との出会いは昭和8年入学して薬用植物を教わった時に始まる。
 左手で黒板に植物の図を描き,右手で横文字をすらすら書かれる姿にまず驚嘆した。戦後先生の研究になる朝鮮あさがおのエキスを打錠した事があったが,それから加速度にご交誼を受け親しくさせて頂いたと記憶している。
 それが緑となり,始め大学の生薬教室の先生方に漢方の話をしていた。昭和41年より正式に後輩の指導をせよとの辞令を受け今年で15年になる。先生の時間を半分頂いて始めたもののいつとはなしに一単位に昇格し,受講生も多くなり,その名も臨床生薬学と素晴らしく身に余る光栄な講義を受け持たせて頂いた。全国の大学,しかも国立第一期校で正課としてスタートさせて頂いたのである。今日,漢方処方が健保にまで収載されるのを見通しておられた先生の卓見には驚嘆し,敬意を表し,尊敬の念を禁じ得ない。
 数年前,日本東洋医学会総会の折り,東京の野口英世記念会館で全国の医師,薬剤師に小生が漢方を大学で正課に出来たのだから諸先生も母校の教授会に働きかけるようにと概を飛ばしたことがあった。
 ある大学の薬理教授は話題を教授会に出したが,時期尚早だったと言った人もいたが目的完遂をお願いした。薬業の方は同行の志が多くなり,公私立44校のうち14校に漢方の講座が出来た。同学のため同慶に耐えない。
 現在,漢方処方90余が健保に収載され,各県の医師の有志の要請で,まず昭和52年熊大小児科の先生の集いに出講したのを手始めに,53年が長崎,佐賀の両県,54年が宮崎,大分県,今年に入って福岡市の医師会の有志に出講した。
 漢方の分業は盛んとなり,佐賀県が全国一位,長崎県が第二位とか。これも恩師高取教授の偉大な業跡のお陰であり,今はただご冥福をお祈りするばかりである。その後,健保収載150余方となり,医科大にも数校講座が出来たことは喜ばしき限りである。

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