出島オランダ商館のツンベルク

後藤 英ニ(昭11)

 ツンベルク(トゥンベルイ)《Carl Peter Thunberg》(1748〜1828)はスウェーデンの植物学者である。ウプサラ大学のカール・リンネの下で植物学,医学を修め,1771年オランダ東インド会社に入社,ケープタウン,セイロン,ジャワを経由,1775年(安永4年)8月,オランダ人と称して長崎に着いた。出島オランダ商館の医官としてである。翌1776年4月,商館長(カピタン)に従って江戸参府,10代将軍家治に謁見している。
 当時の長崎は,鎖国日本が海外に対して開いていた唯一の「窓」で,ヨーロッパ文化はこの長崎の出島から日本に流れ込んでいたと言ってよい。かのケンぺルや後のシーボルトと同様に,ツンべルクも在日期間中,多くの日本蘭学者たちを指導した。ツンベルクの教えを受けた者に外科医の吉雄耕牛や桂川甫周,中川淳庵らがある。リンネの『24綱の植物分類法』を日本に伝えたのも彼である。日本の本草学(薬用植物学)や地理学も彼に負うところが多い。
 同年末,任期を了えて長崎を去り,1779年スウェーデンに帰国,1781年にはウプサラ大学助教授から学長まで進んでリンネの正統を継いだ。在日中に彼がを禁を犯して採集した植物800余種の標本は今なおウプサラ大学に保存されているという。主著に『日本植物誌』〈Flora Japonica〉(1784年)がある。また,その欧亜旅行記『ヨーロッパ,アフリカ,アジア紀行』(4巻)の日本に関する部分は『ツンベルクの日本紀行』として知られる。
 長崎の諏訪公園内の県立図書館前に,ケンペルやシーボルトと並んで彼の記念碑があったが,現在は出島のオランダ商館跡に移されている。
 スウェーデンの郵便切手に「遥か遠くへ(探検家)」というシリーズがあって,その5人の探検家の最初にこのツンベルクが出てくる。図柄は彼の肖像に大きい牡丹の花と長崎丸山の遊女らしい姿が配されている。


過ぎ去った日々


 長薬同窓会の資料にあるかどうか知りませんが,今日は図面を一枚お送りしました。私が薬専に入った頃の長崎医科大学の平面図です。図面をコピーするとき,三か所に書き込みなどしましたが,余計なことだったと思っています。この図面のことはすっかり忘れていましたから,たまたま身辺の整理をしていて,これを見つけた時は嬉しかったですね。この図面を前にして,過ぎ去った遠い日々を思い出していました。
 あの頃の市内電車は浜口町辺りで大きく山寄りに迂回して,そこに大学病院前という停留所がありました。この停留所の正面が大学病院の入り口でした。病院の横の長いだらだら坂を登って行くと大学の正門がありました。この門を入って大学構内の一ばん奥が薬学専門部でした。
 私は城山町の市営住宅にいた頃も,馬渡先生宅に下宿していた頃も,ふだんは裏門から出入りしていました。この裏門は,「百年史」の中にも写真が一枚ありました。(始めの「変遷」の欄の写真5です)
 運動場では年に一度大学,病院一体の運動会が催されましたが,白衣のナースたちと一緒に走り回る級友を,私はただスタンドで見ているだけでした。運動場のすぐ向こうに浦上天主堂が見えていました。

           (平成10年2月4日)

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