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 ■ 研究室案内■

衛生化学とは

 ヒトの健康な生活の確保と病気の予防のため、食品や環境中のあらゆる物質とヒトとの関わりを探求する幅広い学問分野、それが衛生化学です。なかでも、当研究室では、健康の維持に欠かせない必須微量元素の役割を科学的に理解し、病気の予防に役立てようという研究、また、画像情報を発信する極微量の元素を体内に送り込むことによって、分子レベルで病気を早期に検知し予防しようという研究を行っています。

医療福祉の祖 長與專齋(1838-1902)
 医学者。明治の衛生行政機構を確立した。肥前国(長崎県)大村藩医の家に生まれ、4歳で父と死別、祖父俊達に養育される。1854年(安政1)大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾に入り、1858年には福沢諭吉にかわって塾頭となる。1861年(文久1)長崎の精得館(せいとくかん)に入り、ポンペに医学を学び、1864年(元治1)大村藩の侍医となり、1866年(慶応2)ふたたび長崎に出て医学研究に従い、1868年(明治1)長崎医学校の学頭となる。1871年に上京し、文部省に入り、同年岩倉具視(いわくらともみ)遣欧使節団に加わったが、途中、別れて欧米の衛生事情を視察、1873年帰国。相良知安にかわって文部省の医務局長となり、1874年東京医学校校長となった。1875年、文部省医務局は内務省に移り、翌年に衛生局と改称、長与は1891年まで衛生局長に在任し、その間、医制、創始期の衛生行政を確立し、コレラの予防などに功績を残した。長与の後任には荒川邦蔵が就任したが、1892年には長与の意中の人、後藤新平(ごとうしんぺい)が衛生局長となり、その政策を推進した。退任後、長与は宮中顧問官、中央衛生会会長、大日本私立衛生会会頭などを務め、衛生行政界の大御所であった。元老院議員、貴族院議員。遺著に回想録『松香私志』がある。  (Yahoo!百科事典より)


参考:後藤新平 ゆかりの人々 長與 專齊-後藤新平記念館

    医療・衛生行政制度の創始者:長与専斎 (長崎大学 薬学部HP)
 
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