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薬の歴史
 
長崎薬学史の研究
 
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資料

資料1:薬学年表
事項
1552年(天文21年) ポルトガル人外科医ルイス・デ・アルメイダ, 貿易商人として日本に初めて渡来.
1555年(弘治元年) アルメイダ, 再渡来、豊後府内(大分市)でイエズス会に入り、育児院、慈恵病院を建てる
1558年(永禄元年) アルメイダ、豊後府内にわが国最初の洋式医学校を創立した. 日本人医師の養成も行い、西洋医術の導入者・社会福祉事業家として知られている.  西洋文明に関心をよせていた織田信長も宣教師を保護し教会堂(南蛮寺)、安土に学校(セミナリオ)の建設を許した. 宣教師は布教活動の傍ら医療活動も行った. グレゴリアとルイは病人に投薬と治療を施している. また江州伊吹山に薬園を設けポルトガルより3000種の薬草を移植したという. その後の豊臣秀吉は、ヤソ教禁止令(1612年)を出して彼等を追放するが医術は大阪、堺、長崎等を中心に残っていく. これらが南蛮流医術の興りとなる. 南蛮流外科で知られているのは、ポルトガル人 慶友(本名ハッテー、肥前高木に居た)、沢野忠庵(本命クリストファン・フェレーラ、南蛮外科秘伝書3巻著す)、半田順庵(長崎の人)、西吉兵衛(元和2年南蛮大通詞になり、西流外科の一派をなす)、杉本忠恵(長崎の人)、栗崎道喜(長崎で栗崎流外科を興す)、らである.
1562年(永禄6年) アルメイダ、日本布教長トルレスの命により、大村純忠と横瀬浦開港の交渉を行う. 7月ポルトガル船、横瀬浦に入港する.  この時代に活躍するのが田代三喜を祖とする李・朱医学である.
 この流派は曲直道三(まなせどうさん)とその後継者によって盛んになった. この曲直道三の啓テキ院で学び高い薬の調合力を持つ施薬院全宗は豊臣秀吉に仕え法印に叙せられる.
1600年(慶長5年) オランダ船「リーフデ号」豊後に漂着(英国人ウイリアム・アダムス、家康に召され対西洋関係の顧問となる. 三浦按針と名乗り日本に永住する).
1649年(慶安2年) オランダ商館医としてカスパル・スハンベルヘン渡来. 日本人青年4人、官許得て彼に紅毛医術の教授を受ける(この紅毛医師の医術がカスパル流). オランダ商館は初めは貿易業をつかさどる者だけが居住していたが、間もなく商館員の医療に携わる医官が来朝した. この医官こそわが国文化の上に、ことに医学の発達の上に、重要な役割を演じた人々であり、その数は幕末までに150人を数えている.初期の医官中著名な人は、カスパル流の祖カスパル・スハンベルヘンで、彼のカスパル流外科は、猪股伝兵衛、河口良庵らによって伝えられた.
1654年(承応3年) 向井元升、蘭通詞西玄甫を介し、紅毛医師アンス ・ヨハンステイペルらの教示で「紅毛流外科秘要」(7巻)を著す.
1662年(寛文2年) オランダ商館医カッツ来朝、翌年にはダニエル・プリシュ渡来. 平戸藩医嵐山甫安、藩命により長崎に留学し、この2人に学び、ヨーロッパ医学興隆の兆しを作る. ブリシュは嵐山甫安に対し、1665年(寛文5)1月21日付けの医術証明証を与えている. 甫安の子孫は桂川と改姓して、江戸に出て医官となり法眼の位まで上る. 江戸医学の発達に貢献した. 桂川甫筑(邦教)ー>国華ー>国訓ー>桂川甫周(解体新書の訳に携わる).
1674年(延宝2年) オランダ人ウイレム・テン・ライネ、出島商館医として来日(翌年、甲比丹とともに江戸参府、1676年延宝4年帰国時樟脳、茶を欧州に紹介する).
1680年(延宝8年) オランダ人ウイレム・テン・ライネ、出島商館医として来日(翌年、甲比丹とともに江戸参府、1676年延宝4年帰国時樟脳、茶を欧州に紹介する).
1680年(延宝8年) このころ本木良意、レムメリンの解剖書を訳す.  牛込奉行、元大官末次平蔵が開拓した長崎村十善寺郷の薬園跡と付近あわせて8766坪の地を、唐船舶載の薬草植え付け地に指定して栽培を開始、薬は幕府に献上する(長崎薬園の初め).
1682年(天和2年) プロシア人アンドレース・クライエル、甲比丹として来朝し4年間滞在(彼は薬学者で薬学・医学・植物学の知識深く、日本植物を研究し1360種の図説を発表、欧州に紹介した). オランダ人ジョージ・マイステルも来任し、彼は1685年(貞享2年)に再来、2年間滞在し日本の植物を採取している.
1688年(元禄元年) 出島商館医ウイルム・ホフマンら来日. 彼は蘭通詞楢林鎮山にアンブロアス・パレ(フランス後期ルネッサンスの名医)の「外科全書」を伝える. 鎮山はこれをもとに「紅夷外科宗伝」(1706年)を著す.
1690年(元禄3年) (8.26)ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル、出島商館医として来日. 先駆的な日本学者としてこの当時のヨーロッパでもっともよく知られた代表的な人物、それがケンペルである. 彼の著書「日本誌」(1727年ケンペル没後刊行されている)で鎖国日本の内側の姿を本格的に、かつ科学的にヨーロッパに紹介している.(この本の正式のタイトルは『日本誌、その帝国の往古と現在の状況および政府について. また、その諸寺院、宮殿、城郭およびその他の建築について. その「産出する」金属類、鉱物、樹木、植物、諸動物、鳥類および魚類について. 皇室および幕府の事蹟と継承について. さらに、国民の由来、宗教、農工業、ならびにオランダ人および中国人との通商について. あわせて、シャム王国の記述を付す』となっている. 生前の著書「異邦の魅力」(廻国奇観)(1712年刊行)にはさらに専門的な内容で、彼の東方旅行見聞録が書かれている. 特に、その第5部には「日本の植物」を中心に、日本産の重要な植物について名称・性状・用途などが、精巧な図版とともに、驚くほど多数、かつ多岐にわたりしかも種類によってはかなり正確に記述されている. 未だリンネの分類がない時代の事である.
1691年(元禄4年) ケンペル、甲比丹の江戸参府に随行. 外科医栗崎道明正羽、吉田自庵、村山自泊の3人江戸に召され幕医となる(各録200石を支給され、子孫代々幕府に仕えて医官となる). 栗崎道明正羽は長崎の南蛮医栗崎道喜の4男で、長崎奉行所の役医であった.1701年元禄4年松の廊下での浅野長矩の刀傷事件で吉良上野介を治療した.
1692年(元禄5年) ケンペル、二度めの江戸参府に同行.
1695年(元禄8年) 西川如見「華夷通商考」を著し、中国、南洋、西洋の事情を紹介する.
1708年(宝永5年) 楢林鎮山、将軍綱吉に召される. イタリア人宣教師シドチ、大隅の屋久島に潜入捕縛される. 11月9日長崎に護送.
1709年(宝永6年) シドチ、長崎から江戸に送られる。新井白石はシドチを尋問して、西洋の国情や文化を探究した. その成果が「西洋記聞」「采覧異言」で鎖国下の日本の西洋研究の基礎となった. 
1719年(享保4年) 西川如見の子忠次郎「長崎夜話草」を著す. 吉宗に謁見を賜わり、ヨーロパの学問や中国の学問について質問される. 1735年幕府天文御用方となる. 
1720年(享保5年) キリスト教以外の禁書の輸入解禁(洋学解禁) 石川奉行、小島郷に薬園を設け、立山役所内の薬草木を移し、更に輸入した薬草木を植える。御用御薬園という. 
1744年(延享元年) 青木昆陽、幕命により長崎に留学し蘭学を学ぶ.  青木昆陽の長崎滞在は2年足らずであったが、蘭通詞の西喜三郎、吉雄耕牛らは昆陽の来崎に力を得て、蘭書の読書、訳文も許されたいとしきりに懇願した.昆陽も当然のこととして正式に官に願い出たので吉宗はこれを許した. 人痘接種法中国より長崎に伝わる. 
1748年(寛延元年) 吉雄耕牛25才で阿蘭陀大通詞となる. 
1790年(寛政2年) 阿蘭陀通詞目付けとなる 吉雄耕牛、吉雄流外科の一派を起こす.
1754年(宝暦4年) 山脇東洋・小杉玄通、初めて死体を解剖.
1755年(宝暦5年) 安藤昌益、「自然真栄道」を著す.
1759年(宝暦9年) 山脇東洋、「蔵志」刊行.
1765年(明和2年) 吉雄耕牛、甲比丹とともに江戸参府、平賀源内に蘭学を指導する.
1768年(明和5年) 中島真兵衛御薬園掛兼任、薬種目利頭取.
1774年(安永3年) 前野良沢・杉田玄白・中川順庵・桂川甫周、「解体新書」刊行(人体解剖学を日本に紹介した最初).
1775年(安永4年) (7.15)スウエーデン人カール・ペーテル・ツユンベリー、オランダ商館医として来日. 蘭通詞たちに医学・薬学・植物学等を教えた. 出島3学者の一人. ツユンベリーは植物分類学のリンネの高弟で、日本から持ち帰った大量の標本をリンネの体系にしたがって分類し「日本植物誌」(1784年)を著す. この書物は、日本の植物を新分類学の立場からはじめて体系的に扱った学術書として価値が高く、またわが国近代博物学の黎明期における記念碑的著作である.〈日本植物学の父〉と呼ばれる. 彼が報告した日本産植物は総計401属812種で、そのうち26属390種は彼によって発見・命名された種族である. 江戸参府の時、日本の医師や天文方に大いに影響を与える. 中でも、幕府医官桂川甫周と小浜藩医中川淳庵が特に熱心で物理学・経済学・植物学・内科・外科学等について学んだ. ツユンベリー、約1年間気温の観測を1日4回行う、また長崎郊外で植物を採集することを許される.
1776年(安永5年) (10.23)ツユンベリー、長崎を出帆帰国. 彼は、日本滞在中、日本植物の研究を行ったほか、日本の政治・経済・学芸に関心をもち、また長崎の市政や出島の生活、江戸参府の道中をまとめた「日本旅行記」を書いている. ツユンベリーは帰国後師リンネの後のウプサラ大学植物学教授を経てこの大学の学長になっている.
1785年(天明5年) 大槻玄沢、蘭学修業のため来崎. 吉雄耕牛に師事する.(江戸蘭学勃興期に長崎の蘭学はその指導的立場にあった)
1790年(寛政2年) 幕府、朱子学を勧め異学を禁ず(寛政異学の禁).
1793年(寛政5年) 宇田川玄髄、オランダ人ゴルテルの内科書を仮名まじりで訳し「内科撰要」(初編3巻3冊)を刊行、全6編18巻は1810年に完成. 
1794年(寛政6年) 本木良永(阿蘭陀大通詞)、通称栄之進、長崎天文学の代表的人物で、「阿蘭陀地球図説」「平天儀用法」「天地二球用法」など各種の天文学の訳述をし、コペルニクスの地動説を日本に初めて紹介した. 1798年(寛政10年)  志築忠雄「暦象新書」刊行. ニュートンの門弟ジョン・ケイルの天文書の蘭訳本について記述.
1805年(文化2年) 宇田川玄真、「医範堤綱」を著す.(3巻、解剖学に生理学と病理学を加えた医学ハンドブック). 華岡青洲が全身麻酔を世界にさきがけて実用化.
1810年(文化7年) 長崎御薬園を小島郷天草代官屋敷より西山に移す.
1819年(文政2年) 宇田川玄真、「和蘭薬鏡」(おらんだやっきょう)第1巻刊行. 1835年6編、全16巻完成.(この本は医薬品について、国産の薬材はもちろん、中国・東南アジア産で手に入るものから、オランダの医学書・薬学書・植物書・百科事典・局方などを参考にして、その形態・薬効・処方・製剤法などを示している.
1822年(文政5年) 宇田川玄真、「遠西医方名物考」1ー2編刊行. 全12編9巻は361825年に完成.(西洋で定評のある薬品・製剤方法・器具などをイロハ順に並べた事典).
1823年(文政6年) (7.6)フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト、蘭館医師として着任(27才). シーボルトは、南ドイツのバワリヤ王国の学都ウエルツブルグのドイツ医学の名門の家に生まれた. 1815年ウエルツブルグ大学に入って医学を修め、さらに自然科学・民族学などを研究した.1822年7月、蘭領東印度の陸軍外科少佐となり、同時に植民地において自然科学の研究に従事することを委嘱された. 多くの蘭学者が長崎の鳴滝塾に集まった. シーボルトの教えを受けた門人は50余名だが、その影響は非常に大きく日本近代医学の黎明をもたらした. 門人に、美馬順三、高良斎、水谷豊文、伊東圭介、二宮敬作、桂川甫賢、石井宗謙、高野長英、戸塚静海、岡研介、小関三英、湊長安、竹内玄同、伊東玄朴、大石良英、大庭雪斎、石坂桑亀、加来佐一郎、武谷元立、百武万里、河野禎造、森田千庵、黒川良安らがいる.
1824年(文政7年) (6.)シーボルト、鳴滝に塾を開く.
1825年(文政8年) (8.)シーボルト、ケンペルおよびツユンベリ2人の功績を顕彰するため出島薬草園に記念碑を建立する.(1825日10月付けのシーボルトの書簡によると、出島の薬草園には日本列島の1000種以上の植物が移植された).
1826年(文政9年) (1.9)シーボルト、薬剤師ハインリッヒ・ビュルガーをともない甲比丹スチュルレルらと江戸参府へ出発、(6.3)長崎に帰る.  塚原東吾氏は最近の研究で、ビュルガーを日本最初の近代的薬剤師として位置付け、単なる「シーボルトの薬剤師」や「助手」としてでなく、日本で薬学の可能性を化学や鉱物学へと発展させたシーボルトの研究協力者、ととらえている.
1827年(文政10年) (5.6)楠本タキ、シーボルトの児(楠本イネ、日本最初の産科医となる)を出産. (9.9)伊東圭介、来崎、シーボルトと共に植物について情報交換する. 
1828年(文政11年) 文政の台風(シーボルト台風)(この台風による長崎の被害は甚大であった. シーボルトを乗せて帰帆する予定になっていた蘭船コルネリウス・ハウトマン号も難破、海岸に流れついたシーボルトの荷物の中から、日本地図などの国禁の品が発見され、「シーボルト事件」の発端となった) シーボルト事件: 1826年文政9年の春、甲比丹スチュルレルの江戸参府に随行したシーボルトは書物奉行兼天文方の高橋作左衛門らと度々会談しイギリス人シュケイ著の「地理書」と伊能忠敬作の「日本地図」とを交換した. また、幕府の医官土生玄碩は、散瞳薬ロート根を入手した謝礼として、シーボルトに将軍拝領の葵の紋付きを贈った. これらがシーボルト台風の難破船から発見された.
1829年(文政12年) (9.25)シーボルト、帰国を許可されるとともに、再渡来を禁じられる. (12.5)シーボルト蘭船ジャワ号で出帆. 幕府、シーボルト事件の関係者の処分を終わる.  伊東圭介は、シーボルトから贈られたツユンベリーの著書「日本の植物誌」(1784年完成)を基に、そこに記載されている植物名をアルファベット順に記し、それに和漢名を付して「泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)」を刊行した. これはリンネの二名式のラテン名を用いて日本の植物を、日本人の手によって著された最初の本格的な本である. その後彼は西洋式植物分類学の権威と目され、東京大学教授で理学博士第一号となる.
1834年(天保5年) 宇田川ヨウ庵、「植学啓原」刊行. 自然科学への入門書. 1836年(天保7年)  宇田川ヨウ庵、「舎密開宗」初編刊行. 1847年に7編刊(未完に終わる).
1840年(天保11年) 高島秋帆、幕府に「西洋砲術御意見書」を提出.
1848年(嘉永元年) 蘭館医モーニケ来任. 日本に初めて聴診器をもたらす. また牛痘苗を持参し、翌年接種に成功. (モーニケは医学・気象学を教え、出島に気象観測所を設けた). 楢林宗建佐賀藩内で種痘を実施. 西洋植字印刷機一式および鉛活字を輸入蘭通詞本木昌造ら4人蘭書の復刻を試みる.
1849年(嘉永2年) 蘭船、初めて前年注文の牛痘苗(牛痘菌)を輸入(モーニケは楢林宗建と協議し、小児に接種することを決める). モーニケ、江戸町の阿蘭陀通詞会所で種痘を始める. また、吉雄圭斎・柴田方庵に種痘術を伝授(12月27日までにモーニケが種痘した者は391人に上る). 式見村で始めて種痘を実施(代は一軒につき米8勺あて、村中で米1表2斗7升9合を牛痘方に納める).
1850年(嘉永3年) 薬種目利き野田青カ「拾品考」刊行(長崎に輸入した海外の植物10種を図にして解説). 幕府、長崎奉行に命じ、輸入書を検査し、許可なく訳書の売買を禁止する. 特に、蘭医学のうち内科系統のもの禁じ、医書の刊行を監視する.
1852年(嘉永5年) (10.6)佐賀藩医楢林宗建没、1801年長崎に生まれ佐賀藩医となり、シーボルトに師事し蘭医術、物理学、化学に精通し詩文にも長じた. 
1849年(嘉永2年) オランダから種痘菌を取り寄せ牛痘菌の接種に成功し、種痘術を全国に普及させた.
1853年(嘉永6年) (6.3)ペリー来航、幕末の始まり. 1854年(安政元年)  (3.3)ペリー、日米和親条約を締結調印.
1855年(安政2年) 蘭医ハン・デン・ブルク来任、1857年帰国. 薬学に精通し物理、化学に詳しく、また機械学にも通じていた. 門下生に物理・化学等を教え、1855年11月には、長崎奉行に次のような意見を上申している. 「学問を通詞などに教えるよりも年小の青年10人くらいを選んで手許においてその好むところに従って化学・物理・算術・測量を教え、通詞もその好むところに従って通訳させた方が有益である. 教示も試験も1人でも10人でも同じ費用と労力であって、しかも多人数の方がはげみになる。化学や物理の教示には器具薬品を必要としばく大な費用を要するが、自分所持の物もあり外国から取り寄せ方も何とか尽力する」. 海軍伝習所を設ける.  (12.23)日蘭和親条約を長崎で調印(正式国交開始).
1857年(安政4年) 語学伝習所の発足. 第2次海軍伝習所教官隊一行37人(隊長・オランダ海軍軍医カッテンデイーケ中尉)ヤパン号(後のカン臨丸)でオランダから到着. オランダ海軍軍医ポンペも派遣教官の一人として来日. (8.29)日蘭追加条約ー事実上初の通商条約 (9.26)ポンペー西洋医学の講義を開始、松本良順、司馬凌海ら12人(一説には14人)医学伝習生となる(長崎大学医学部の開学記念日としている). ポンペの講義所はその後、伝習生の数が増えたため大村町11番地の高島秋帆廷内の西北隅の一屋(現・長崎地方裁判所所在地)に移り、大村町医学伝習所と呼ばれた. この大村町医学伝習所で初めて公開の種痘を行う(小児8人に施行). その後、長崎に天然痘が流行したため、ポンペはバタビア政庁を通じて痘苗を入手し、1858年中に1歳から2歳までの小児218人に種痘を施行した. また、翌年1859年には1300人に種痘を行うなど種痘法の普及に力をつくし、日本人を天然痘の惨禍から救うことに貢献した. ポンペ、大村町に「舎密試験所」開設、上野彦馬入門する). インフルエンザの大流行.
1858年(安政5年) 中国経由で入港中の米軍艦(ミシシッピー号、ペリー艦隊の4船うちの一船)乗組員にコレラ患者がいたため市中に流行、死者767人を出す(この時、ポンペ、医学伝習所の協力を得て治療に尽力、コレラにアヘンとキニーネを推奨). その後江戸まで広がり江戸で31、229人の死者を出す. (4.)大阪町奉行、古手町除痘館の種痘を官許とする(種痘官許のはじめ) (5.7)江戸蘭学者有志、神田・お玉ケ池に種痘所を開設、蘭方医学研究の拠点とする. (7.6)幕府、官医の蘭方医学研修を許可(蘭医戸塚静海、伊東玄朴を幕医として採用) (7.)アヘン輸入禁止を米・蘭・露・英と締結.  (8.)佐久間象山、電磁石・ダニエル電池を制作. 語学伝習所を英語伝習所と改める(のち広運館). 出島の和蘭商館廃止され領事館となる. ポンペ、奉行岡部駿河守の援助のもとに幕府に対し病院設立を建白.  活字判摺立所で、「日蘭条約書」、ポンペ著「種痘書」(蘭語)など出版. シーボルトの追放令解かれる. 
1859年(安政6年) (2.9)海軍伝習所閉鎖(ポンペの医学伝習は続行). (7.8)シーボルト、オランダ貿易会社長崎支店顧問として来航(1862年文久2年春、幕府に献言しようとしてオランダ総領事に妨げられ帰国). (8.13)ポンペ、許しを得て3日間、西坂刑場で死刑囚の死体解剖実習を行う(受講生46人、シーボルトの娘イネも参加).  出島オランダ印刷所、ポンペ著「出島における気象観測」を出版. 麻疹流行(幕府、予防書を配布.)
1860年(万延元年) 養生所と名称決定.
1861年(文久元年) 天然痘流行. 種痘所を西洋医学所と改める.  (8.6)養生所落成、養生所開所式と医学所開所式挙行(8.16)(8.17から診療開始、養生所教頭ポンペ、同所頭取松本良順. 養生所は、洋式8病室・124床・手術室・隔離室・浴室・調理室を備え、別棟に講義室・奇宿舎をもつ、日本では初めての近代的西洋式病院であった. 食事もパン等の西洋式で、病室も風通し等を考慮にいれて設計された). 出島オランダ印刷所、シーボルトの著「日本からの公開状」出版.
1862年(文久2年) (8.22)オランダ陸軍軍医ボードウイン、長崎養生所・医学所2二代目外人教師として着任、ポンペ医学教育を引き継ぐ. (9.11)幕府最初の海外留学生として榎本武揚・西周らとともに伊東玄伯・林研海らの医学生も長崎からオランダに向かう. 津藩食客の上野彦馬、藩の子弟のため講義用として「舎密局必携」を著す. 化学実験室必携ともいうべきもので、漢字で元素記号と化学式を表わした. (11.)写真館(上野撮影局)を開く(この年の春、横浜で写真業を始めた下岡蓮杖とともに日本写真の祖となる). 本木昌造、自著「秘事新書」で硬石けんの製造法を紹介.  出島オランダ印刷所、ポンペ著「薬学指南」を印刷. 長崎に麻疹大流行.
1863年(文久3年) (6.13)コレラが流行、長崎奉行ボードウイン著「これらの養生法」を公布. 西洋医学所を医学所と改め機構を改変し漢方の医学館と同格となる
1864年(元治元年) ボードウインの要請で、小島養生所の地続に分析究理所を設立、蘭人ハラタマを招く.
1865年(元治2年、慶応元年) 医学所の学制を改め、オランダ学則に準じ、理化学・解剖学・生理学・病理学・薬剤学・内科・外科の7科をおく.
1866年(慶応2年) 養生所を精得館と改称し(医学所は付属機関)、蘭人ハラタマ、精得館分析空理所教師として来任(物理と化学を担当)
1867年(慶応3年) 幕府、長崎分析空理所を江戸・開成所に移す. ハラタマ江戸へ移る.
1868年(慶応4年、明治元年) 精得館を長崎府医学校と改称.(校長に長与専斎、教頭にマンスフェルトを任命し、大学・小学の2科を設け、医学校規則・病院規則・薬局掟などを定めた. (1.)イギリス人医師ウイリス、鳥羽・伏見の戦いにて創傷洗浄に過酸化マンガンを使用. (11.)高松凌雲、函館戦にて創傷洗浄に石炭酸水を使用.
1869年(明治2年) 長崎府医学校にアントン・ヨハネス・ゲールツが招かれ、機何・物理・化学などの学科を担当(彼は、長崎府医学校内で気象観測を始め、日本における気象観測の基を作った). 長崎府医学校は長崎県病院医学校と改称.  (1.23)岩佐純、相良知安医学校取調御用掛となる. 相良知安は、明治新政府が政治的配慮からイギリス医学導入を決めようとしていたとき、純粋に学問的立場からドイツ医学導入を強く説き、その採用に大きく貢献した. 特志解剖第1号(美畿).
1870年(明治3年) (12.12)ウイリス、鹿児島で医学校開設(第1期生高木兼寛、実吉安純ら). 長崎県立バイ毒病院を大徳寺跡に設置する.
1871年(明治4年) (7.)文部省が設置され江藤新平が初代文部卿になり学制の改革が急速に行われた. 長与専斎、文部省に転勤になる. 転勤後岩倉具視らの欧米使節団の一行に加わりアメリカを経てヨーロパを周り1873年に帰国した. 専斎はドイツで池田謙斎、桂太郎、松本ケイ太郎、長井長義らの協力のもと日本の医療行政の基盤である「医制」七十六条の構想を練る. (11.14)長崎県病院を文部省管轄とし、長崎医学校と改称  ゲールツ、小島郷稲荷山に気象観測所を設け、気象観測を始める.
1872年(明治5年) 長崎医学校を第六大学区医学校と改称.
1873年(明治6年) 第六大学区医学校を第五大学区医学校と改める.  シーボルトの娘・楠本イネ、宮内庁御用掛を拝命、宮中の産事をつかさどる. (イネは明治3年2月から東京で産科医を開業、わが国における最初の産婦人科医となった)
1874年(明治7年) (3.)衛生行政組織、医事、薬事、公衆衛生のみならず、医学教育について定めた総合法典である医制が公布された. 医制76条の内訳は次のようになっている. その第1ム111条は、全国衛生事務の要領と地方衛生及其史員の配置、第12ム26条は医学教育、第27条ム第53条は医術開業試験とその免許、第54ム76条は薬舗開業試験とその免許及び薬物の取締規定である. (10.12)征台の役に当たり、長崎病院を公兵員病院にするため、長崎医学校を廃止(学生は東京医学校に転学). 長崎医学校および病院は、番地事務局病院となる.
1876年(明治9年) 長崎司薬場設置. 試薬監督にエーキマン就任. 1878年(明治11年)コッホ破傷風菌発見.
1880年(明治13年) 4.22)日本薬学会創立.
1887年(明治20年) (7.1)日本薬局法施行、明治13年10月衛生局長長与専斎の建議にも基づいて日本薬局方が制定されていく. 明治19年6月内務省令をもって初めて日本薬局方が発布され、明治20年施行された.  日本薬局方編集総裁および委員は次のような人々であった. 総裁は元老院幹事細川潤次郎、委員は陸軍軍医総監松本順、同軍医監林紀、海軍軍医総監戸塚文海、一等侍医池田謙斎、内務省衛生局長長与専斎、東京大学医学部教授三宅秀、海軍中医監高木兼寛、陸軍二等薬剤正兼二等軍医正永松東海、柴田承桂、東京司薬場教師オランダ人エーキマン、横浜司薬場教師オランダ人ゲールツ、東京大学医学部教師ドイツ人ベルツおよびランガルト、オランダ人ブッケマン. 
1888年(明治21年) (3.31)県立長崎医学校廃止され、校舎・敷地を第五高等中学医学部に移管. (4.10)第五高等中学医学部に九州各地区の元医学生徒369人を入学させ、仮開校式を挙行.
1890年(明治23年) 第五高等中学医学部薬学科の設置(6.18) (6.1)県から5.9付の衛生組合準則が公布され、町ごとに衛生組合を設けることになる(この年に50カ町が結成され、昭和8年には257組合に達した. 主として清掃・消毒・伝染病予防など衛生行政の協力を目的として活動した). 長崎にコレラ発生し、全国に流行(死亡35、227人)、内務省は長崎市をコレラ流行地に指定.
1891年(明治24年) 福沢諭吉の医薬分業論の記事が出る(時事新報、明治24年12月10日付け). 医師と薬舗の癒着を憂えている.
1892年(明治25年) 第五高等中学医学部の新校舎が西彼杵群浦上山里村に完成、第3回卒業証書授与式を兼ねて新築落成式を挙行.


主要参考文献 :
日本薬学会百年史編纂委員会編、「日本薬学会百年史年表」、日本薬学会、昭和55年(1990) 市政百年長崎年表編さん委員会、「市政百年 長崎年表」、長崎市役所、平成1年(1989) 長崎県薬剤師会編、「長崎薬史」、昭和53年(1978) 長崎大学薬学部百年史記念誌委員会、「長崎大学薬学部百年史」、平成2年(1990) 小川鼎三、富士川遊、「日本医学史綱要I,II]、平凡社(東洋文庫)、1974 小川鼎三、「医学の歴史」、中公新書、中央公論社、 1964 長崎学会、「長崎洋学史 上・下」、長崎文献社、昭和41年(1966) 中西啓、「長崎のオランダ医たち」、岩波書店、1993 芳賀幸四郎、「日本史新研究」、池田書店、昭和37年(1962) 呉秀三、「シーボルト先生 その生涯及び功業」、平凡社(東洋文庫)、昭和42年(1967) シーボルト、斎藤信訳、「江戸参府紀行」、平凡社、1967 中西啓、「シーボルト前後」、長崎文献社、1989 大森 実、「知られざるシーボルト」、光風社、1997 シーボルト記念館、「オランダ渡りのお薬展」展示録より、平成10年(1998) 化学(大江戸化学事情)、化学同人、Vol. 53(10)、1998 西村三郎、「リンネとその使徒たち」、朝日新聞社、1997 篠田達明、「白い激流」、新人物往来社、1997 佐藤雅美、「開国」、講談社文庫、1997 杉本つとむ、「長崎通詞ものがたり」、創拓社、1990 鶴見俊輔、「高野長英」、朝日新聞社、1985 オールコック著、山口光朔訳、「大君の都 上・中・下」、岩波書店、昭和37年(1962) 司馬遼太郎、「胡蝶の夢 1ー5巻」、新潮社、昭和54年(1979) 伴忠康、「適塾と長与専斎」、創元社、1987 火坂雅志、「全宗」、小学館、1999
   
長崎大学