昭和37年卒 卒業40周年同期会

寺尾 桂子(昭和37年卒)

 昭和37年卒の”卒業40周年同期会”が10月12日(土)午後6時から、懐かしい長崎の町 中華街 “京華園”で開催された。卒業当時47名だった同期生も、現在43名となったが、開催7回目の今回は、出席者29名(男性19名、女性10名)という盛会ぶりであった。締切り間際の俄かプランの追加もあって、幹事さんを慌てさせる場面もあったが、そこは便利な I T時代 、Eメールのやりとりで、スケジュールの調整もスムーズに進み大変楽しい集いとなった。
 12日当日、女性7名(吉田、有村、松崎、中山、尾崎、岩永、寺尾)で、久しぶりにグラバー園を観光したが、1週間前火災にあった豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号が、三菱造船所のドッグに停泊していた。又 毎年盛大に開催される さだまさしのコンサートで、すっかり有名になった稲佐山も、昔のままの姿をみせていた。宴会は、乾杯のあと40周年を振り返って、1人1分間のスピーチとなった。大方の人は現役を引退して、第二の人生を大切に過ごしておられる様子が窺えた。未知の人生を自ら切り拓き、己の轍を描き生き抜いてきた充実感に溢れた顔顔が、そこにはあった。
 卒業時は、女性の3名を除き、全員九州出身であったが、今回の参加状況を見ると、遠くはアメリカから1名、台湾1名、関東5名、関西5名、山口、佐賀、大分、熊本、鹿児島各1名、福岡4名、地元長崎が8名という居住分布であった。
 二次会は、カラオケ店”裏町人生”ではじまった。学生時代の思い出話に耳を傾けていると、”あなたのお陰で卒業することができた”と当事の優等生?にお礼を述べる人、”貴方が好きでした”と秘めた若かりし日の恋心を打ちあける人もいた。(因に、我々の同期では、ガップルは誕生していない)。カラオケ係りに促されて、歌い自慢が持ち歌を熱唱し、最後は全員で「長崎の鐘」を大スクリーンの前で大合唱し、再会を期して解散となった。クラス会は、今まで5年おきに開いていたが、今後は、毎年各地で持ち回りで開催することとした。
 翌13日 女性有志7名(吉田,有村、松崎,中山,山口、岩永,寺尾)は、長崎市 公会堂前広場で、長崎くんち「モッテコーイ」の公演を3時間かけてゆっくり見物した。今年は、本踊(上町),川船(油屋町)、唐船祭(元船町)、宝船・七福神(鍛冶屋町)と絢爛豪華な世界が繰り広げられ、最後に筑後町による青白3頭の龍が躍動し、モッテコーイ!モッテコーイ!のコールで祭りは最高潮に達して,長崎くんちを充分に満喫することができた。
 午後は、長崎バスで雲仙に向かった。卒業以来、初めて長崎に来た人もあったので、地獄めぐりをしたり,宮崎旅館(両陛下、皇太子がご宿泊された)の庭園やロビーを見学したりして,隣接の九州ホテルに一泊した。九州ホテルも老舗のホテルで、雰囲気がとても素晴らしく、夕食、朝食も美味で、温泉も大変よかった。温泉卵の上手な作り方に話がはずみ、帰ってから早速作ってみたら、大成功で、我が家の一品となった。
 翌翌日の14日は、晴天に恵まれ、ホテル前の旧八幡地獄を散策した。今年は,例年より早く つげ、どうだんつつじ、みやまきりしま、さくら、ななかまど等ちらほらと紅葉し、雲仙の山並みがとても美しかった。タクシーで仁田峠に行き、ロープウエイで妙見岳(1333m)に登り、普賢岳 (1359m)と噴火により新生した”平成新山(1486m)”をガスがかりのあい間 に見ることができた。時間の調整がつかず、今年7月オープンしたばかりの「雲仙岳災害記念館」(平成2年11月17日の大噴火の体験施設)を見学することができず残念であった。
 本州組4名(吉田,有村,松崎,寺尾)は、博多駅で、懐かしい”長崎サラうどん”を食べて 長崎と(?)お別れすることとなった。笑いの多い、楽しい同期会でした。
 幹事さん達大変お世話になり、有難うございました。