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渡辺先生の思い出

 


昭和62 年卒業 塚崎 雅雄

 本来勉強というものが嫌いな性分であったために、3年間遊び呆けて留年してしまい、それでもなお1年間ぶらぶらしていた私を拾ってくれたのが渡辺先生、古川先生であった。 合成教室に入る前の野球部員としての4年間は言うまでもないが、教室に入り先生の下で実験をするようになってから先日亡くなられまで、渡辺先生には本当にお世話になり、また影響を受け続けてきた。 情熱的、誠実、リーダーシップ。 先生の魅力を表現する言葉をあげればきりがない。 合成教室での先生はまさしくそれらの言葉通りで、化学実験、実験後の飲み会、野球、釣り、麻雀など、何をするにしても全力で、私達学生はいつもその熱気にあてられていたような気がする。 私が有機合成化学に興味を持ち、深く入り込むこととなったのはそのせいかもしれない。 教室で実験を始めた頃、化学の知識をほとんど持ち合わせていなかった私はいつも先生にくだらない質問してばかりしていたが、しかし先生はそれらの質問に対し、呆れることも無く実に辛抱強く答えていただいたことを思い出す。 それは私がこの道に入っていく上で、とても幸運であった。 その後大学院に進んだが、先生と私はよく日曜日の午後に実験室で一緒になった。 そういう時は決まって、先生にいれていただいたコーヒーを一緒に飲みながら研究に関する新しいアイディアについて議論したりしたものだった。 今思えば、青二才だった私は渡辺先生に1対1で向き合っていただけたお陰で、遅れ馳せながら化学者を目指す上で必要ないろいろなことを短期間に学ぶことができたのだと思う。
 大学院終了後の進路として海外を希望していると切り出す時、私は正直言ってまだ早いと叱られるのではと心配であった。 しかし予想に反して渡辺先生は、私の気持ちを理解していただき、すぐにポスドク時のボスであったカナダの Snieckus 教授に連絡を取ってくださった。 そして彼から私を受け入れてもよいという手紙が送られてきたときは、自分のことのように心から喜んでいただいた。 後に分かったことであるが、博士号を持たない研究員を受け入れることは普通考えられないことであるのにかかわらずSnieckus教授が私を受け入れてくれたのは、心から信頼している渡辺先生の紹介であったからだという。 カナダに滞在中、Snieckus教授から渡辺先生の話を聞く機会がたびたびあったが、そういう時Snieckus教授はいつも懐かしい良き日々を思い出すかのように顔に笑みを湛え、如何に渡辺先生が素晴らしい研究者であるかを語ってくれたものだった。
 3年半前に日本に帰国し今の外資系製薬会社の研究所に勤めるようになってからも、渡辺先生とは e-mail でいつも近況や有機化学についての話をやり取りしていた。 雑用でとても忙しいとよく言われてはいたが、4月から学生が来ることが決まってからは、また学生の実験の面倒を見ることをとても楽しみにされていた。 先生からの最後のメールにこう書かれていた。「定年まであと5年。でも最後まで手を抜かずに頑張ろうと思います。」その通り、これまでも先生は常に何事にも全力投球で手を抜くことはなかった。 これほどまで早く亡くなられたことは私にとって悲しみの何物でもないが、それと同時に一人の人間の生き方、あるべき姿を私達に見せていただいたことに心から感謝している。

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