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市川先生と渡辺先生を偲んで

 

(長崎大学医学部附属病院薬剤部)
昭和57 年卒業 中嶋 幹郎

 2000年を迎えた今年も、もう秋の訪れを感じる季節となりました。市川正孝先生が逝去されはや10ヶ月が、また市川先生をまさに追うような形で渡辺三明先生が急死されはや8ヶ月が過ぎようとしています。私は昭和59年春に大学院修了後、今の職場である長崎大学医学部附属病院薬剤部に就職した関係で、これまでずっとお二人の先生にお世話になってまいりました。特に、市川先生には15年間にわたり職場の上司としてご指導して頂きました。私が初めて市川先生にお会いしたのは、大学病院の薬剤部に就職してちょうど1年が経った昭和60年の4月、市川先生が薬剤部長教授職に就任された時でした。私は在学中から野球部の大先輩が福山大学薬学部に教授でいらっしゃるということを渡辺先生からお聞きしていましたが、その先輩に直接お目にかかったことはありませんでした。最初に薬剤部で市川先生にお会いした時の印象は「厳しい上司」でした。10年ほど前までは、いまでも毎年初秋に開催されている九州山口国立大学病院薬剤部ソフトボール大会に備えての練習で、市川先生とよくキャッチボールをしましたが(野球部のキャッチボールです)、その時も「厳しいコーチ」と練習をしているような感じでした。しかし、その練習のかいあって、当時4連覇を成し遂げることが出来ました。市川先生はスポーツだけではなくお酒もとてもお好きで、私も独身のころ職場の仲間と一緒によく飲みに誘って頂きましたが、そのようなリラックスした場面でも、私の市川先生に対する印象は「厳しい先輩」であったことを思い出します。平成5年4月に医学部の教官職になってからは、長崎大学や長崎県病院薬剤師会の中で教育研究面に関する仕事をする機会が増え、市川先生から直接指示を受けることが多くなりましたが、このようなの場面での私の市川先生に対する印象は「厳しい教授」でした。市川先生には、夫婦で公私にわたりお世話になることばかりでしたが、2人ともこのような厳しい市川先生がとても好きでした。私に対して常に厳しく接して下さったことが市川先生の優しさだったと思っています。また、市川先生は渡辺先生を非常に信頼されておられ、市川先生が主催される学会では、毎回渡辺先生に運営の中心スタッフの一人として参加して頂き、薬剤部を助けて頂いたことを思い出します。私は、渡辺先生が亡くなられた夜も、市川先生を偲ぶ会の打ち合わせのため午後9時ごろまで渡辺先生とご一緒しており、帰宅後、午前3時すぎに薬剤部の佐々木均先生から渡辺先生急死との電話連絡を頂いた時には、本当に驚かされました。今はもう、市川先生、渡辺先生から直接教えを請うことはできませんが、これからは、市川先生、渡辺先生との出会いから私が得た財産を、薬学を志す若い後輩達に、特に長薬野球部の後輩達にしっかりと伝えていきたいと考えています。両先生のご冥福を心からお祈り致します。ありがとうございました。

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