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市川正孝先生とタバコ

 


昭和38 年卒業 左利 龍彦

 先生に初めてお会いしたのは、教養が終わり昭和町の校舎に移った昭和35年の春でした。当時、先生は生化学教室に所属されていたと記憶しています、小生は野球部の他に庭球部、卓球部に所属しており、校門の脇にあったテニスコ−トでの練習を先生が生化学教室の窓から見ておられたのを思い出します。先生が昭和37年春に熊本大学へ移られるまでの二年間、昭和町校舎で一緒だったと思うのですが、何だか先生は雲の上的存在でしたので親しくお話をさせて頂いた記憶はあまりありません。しかし野球部の練習では先生のノックの厳しかった事と遊撃手の守備を教えてもらった事は今でも覚えております。昭和36年の九薬連において吉田・平バッテリ−(昭和37年卆)で見事に優勝したチ−ムに遊撃手として貢献出来たのも偏に先生のお教えの賜物と思って居ります。九薬連での優勝は小生の長崎での学生生活最大の思い出であり又最大の喜びでもあります。
 昭和38年に吉富製薬(現ウェルファイド)に入社し、以後東京、横浜、大阪、広島と転勤を重ね各地の大学病院薬剤部長から先生の噂はしょっちゅう聞いてはいましたが、残念ながら担当地区の関係で直接お会いする事は有りませんでした。その間、同社の村野弘和君(昭和54年卆)に何度もOB会に出席する様言われていましたが、多忙にかまけて出席しなかったのが先生との再会を遅らせる事になりました。
 平成5年4月日本たばこ産業に在籍出向する事になり、今度は東京目黒に単身赴任しました。任務は医薬事業部営業の立ち上げでした、平成6年無事立ち上げを果たし初代営業部長として作業を進めている時にある書物で市川先生の名が目に止まりました。先生の留学先の一つでありましたウィスコンシン大でのタバコに関する論文でした、勿論日本たばこ産業に勤務する小生にとってはネガティブデ−タ−でした。困ったなと思うと同時に、早急に先生にお会いして色々お話をお伺いしようと思ってた矢先の平成8年7月に3年余りの日本たばこ産業勤務を終えて吉富製薬に復帰しました。ここで又先生との再会が延びる事になります。吉富製薬入社以来何かと相談に乗って頂いていた昭和大学黒岩幸雄教授(昭和30年卆)の退官記念パ−ティ−が平成9年3月に虎ノ門のホテルオ−クラだったと思いますが盛大に挙行されました、この席で念願の市川先生に再会する事が出来ました、今思えば黒岩先生に再会の機会を作って頂いたと感謝して居ります。学生時代の話、タバコの話等色々話しているうちに一度大学病院へ来なさいと言う事になりました、その後何度となく連絡を取りましたが、先生のご多忙さは驚くばかりで二三度アポなしで大学へ押し掛けましたがお会いすることは出来ませんでした。結局、黒岩先生の退官記念パ−ティ−でお会いしたのが最後になりました。唯々残念でなりません。市川先生のご冥福をお祈り申し上げます。
                                合掌

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