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故市川正孝教授との想い出

 

佐世保市
昭和31 年卒業 今泉 貴世志

 謹んで故市川正孝先生の霊に哀悼の辞をささげます。
 長薬野球部同窓会にとっても本当に惜しい人を亡くしました。
平成11年9月4日の午前中「市川先生が入院されました。然もむつかしい病気の様ですよ」との電話を貰い驚き、すぐに大学病院の薬剤部へ電話をしましたが、未だはっきりした事は分からないとの返事で非常に心配したものです。9月14日に病院を訪れましたが面会謝絶との事で逢えず佐々木・小笠原両副薬剤部長より、入院以来の毎日毎日の病状と治療の経過をくわしく説明受けました。今の医療の最高の療法をされたと思いますが10月・11月と大分快方に向かわれ、今年の3月19日には退官記念パーティまで企画されていた様ですが,それも中止になり誠に残念です。あまりにも早かったと思います。

写真  私と市川君との出逢いは45年前,昭和30年4月にさか昇ります。長大薬学部野球部に私が4年生、市川君が2年生の時で大村の教養部を2年過ごして本学部へは入ってきた時です。長崎東高校が甲子園へ挑戦した時の素晴らしい内野手が今度薬学部へ入学したと云う噂は長崎の本学部におっても伝わってきました。後から決勝戦で敗れて甲子園へはあと一歩だったのが真実の様ですが、その素質と技量は超一流でした。お蔭で4年生の私はそれ迄ショートをしていましたがショートのポジションをゆずり、ピッチャーしたり、ファーストをしたりの有様でした。佐賀県薬会長の江口さんの後のポストをやっと確保したとこでしたのに。熊本大学薬学部との定期戦や長崎大学の学部対抗戦のために、当時の私は昼の明るいうちは有機合成や薬学の追求よりも、野球オンリーの学生生活だったと想い出されます。昭和31年に卒業しても、もう少し勉強をしなさいと当時の高取治輔教授の御自宅に居侯させられて、研修生として一年半ばかり学校にお世話になりましたが、市川君や九薬の元常務だった西脇金一郎君やシオノギ福岡支店学術部長だった角田正之君達が真面目に分析や合成の実験をしているのを呼び出して、グラウンドでフリーバッティングをしたものです。彼等もよく私につきあってくれたものです。

 夜は夜で昼間汗をかいているのでアルコールのピッチがあがり,連日連夜、銅座,観光通り、ハーモニカ横丁とくり出したものです。今はあまり名前を聞きませんが、50円のハイボールの全盛時代で、サントリーバーとトリスバー(ウミノ)の二軒位しかなく、後は女性がいるサロンとキャバレー銀馬車位でした。2時、3時が当たり前で翌日は私はゆっくり良かったが、彼等は講義があるので大変だったと思います。すまぬ事をしたと後悔しました。

 市川君はそれから卒業後、一番ヶ瀬教授の下で熊本大学薬学部,ウイスコンシン大学、福山大学と我々とブランクがありますが15、6年前長崎大医学部教授として戻ってきてから又付き合いが始まりました。早速、長薬野球部OB会にも出席するし、当然、長崎で佐世保でと夜のつき合いも復活しました。佐世保でソフトボールのチームを私の会社の男子連中と作って呼んだり、電話をかければ心よく引き受けて出席して呉れました。当然、其の夜は2次会、3次会とクラブめぐりです。佐世保の美人のママさんにも人気があり、連れて行った私は影がうすかった様です。

写真  ソフトボールばかりでなく、私の会社の薬剤師の皆さんにも時々佐世保に呼んで、長大病院の院外処方菱発行の影響や薬剤師の職能向上の講義等をして貰いました。思えば昨年のお盆の直前の8月10日に高木会長・西脇野球部同窓会長・渡辺三明助教授らと共にお招きして今泉調剤薬局の薬剤師全員と一席もったのが元気な彼の姿を見たのが最後でした。其の時もいつもと何の変わりもなく呑んで食べて10人ばかりで2次会のクラブヘとくり出しました。12時近くになって私だけ帰ると言ったら、めずらしく一緒に帰ると言うので西脇君と2人をホテルヘ送りました。10年位前、長崎で呑んだ時、12時頃ホテルヘ帰ると言ったら、昔、学生時代、2時3時迄ひっぱって帰さなかったくせにもう帰るとはなんですかと帰さなかった事がありますが、其の時は素直についてきました。今、思えばやっぱり何か異常があったのではないかと悔やみます。翌朝、私の店に挨拶と言って寄ってくれたのが,あの顔色の赤い笑顔が素晴らしい、誰からも愛され、尊敬された市川君の最後の顔でした。長崎県内の何所の薬局でもそうでしょうが,薬剤師不足で困り果て、悩んで頼んだ時も数名の薬剤師を世話して勤務の便宜をはかってくれたし、私の頼み事はよく聞いてくれました。改めて今、感謝の念で一杯です。

写真 写真  やっと面会が出来ると聞き11月21日に大学病院の病室を訪れ、奥様と3人で30分ばかり話し合い、その時、快方に向かいつつあるとの事で退官記念パーティーの事などを話し合い、又バッチリ呑もうやと言って帰った事でした。その1週間後位に何か急変した様な連絡をうけ心配しておりましたが、最悪の結果となりました。これからもっともっと元気で長崎県薬剤師会、病院薬剤師会、長薬同窓会、長薬野球部同窓会の為に指導的立場で活躍して貰いたいと思っておりましたが果たせず残念の一事です。お残りになられました奥様の則子様や三人の立派に成長されましたお子様達が心落とす事なく幸せにお暮らしになる事を祈りたいと思います。
                                    合掌
(本稿は長崎県薬剤師会雑誌「県薬だより」2000年3月号に掲載されたものです)


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