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野球狂人生

 

長崎大学医学部教授、附属病院薬剤部長
昭和33 年卒業 市川 正孝

(薬局長百人選 IX(p.17) 薬事新報社 平成3年1月発行より)

 昭和九年生まれは、終戦直後アメリカ軍の占領下にあって日本の教育制度が改革され、昭和二十二年小学校卒業と同時に義務教育として新制中学へ入学させられた第一号の年齢に当る。野球が死ぬほど好きで、長崎市立大浦中学校の三塁手となり最強のチームカを誇った。昭和二十四年、長崎県立東高等学校が西九州地区予選(長崎、佐賀、熊本県)で優勝し甲子園へ出場したのが憧れとなり、同校へ進学して硬式野球部へ入部した。幸い、一年次から三塁手に抜濯され三年次は遊撃手となり、甲子園を目指して日夜練習に励んだ。先輩には申訳なかったが甲子園への夢は遠く、卒業時に実業団や私立大学からの勧誘もあったが、青春を野球に捧げ燃えつきた抜け殻みたいに一年間頭を冷やして浪人生活を営むことになってしまった。昭和二十九年に長崎大学薬学部へ入学、順調に卒業し、なぜか生化学に興味が湧き大学に残った。生涯野球を止めようと決意した根性はどこへやら野球狂いがまた始まり、長崎大学野球部の主戦投手に返り咲き、実業団チームとして九州各地を転戦した。昭和三十七年に熊本大学薬学部薬剤学教室助手として配置換したとき、やっと野球熱が冷めた。これは師事した一番ケ瀬尚教授にお願いして行動を伴にしたことによるもので、薬剤部長を併任されたこともあって、病院薬剤師に関心をもつきっかけにもなった。
 昭和三十九年から四十一年にかけて九州大学薬学部薬品製造工学講座へ内地留学し、酸素異項環のクマリンとニトロフラン誘導体の合成化学分野を研究することとなり、恩師西海技東雄先生に主査をお願いして薬学博士論文を完成することができた(当時三十一才)。 一般家庭に食肉加工製品を保存する冷凍・冷蔵車が普及しておらず、冷凍食品加工技衝の開発が未熟であったため、保存料・食品添加物の研究が盛んで、西海技先生によってニトロフラン誘導体のAF-12がハム・ソーセージ、かまぼこ、豆腐などの保存料として開発された。当時、米国ウイスコンシン大学医学部臨床腫瘍学科のブライアン教授はニトロフラン系化合物の発癌性を研究しており、西海技先生を通じて化学物質の発癌性に関する研究のプロジェクト参加を要請してきた。
 昭和四十六年、熊本大学薬学部薬品製造工学講座の助教授になって二年目のときであったが、留学の機会を得てウイスコンシン州マジソン市で生活することになった。
 約二年間の研究生活を終えて帰国したが、その後六年を経過してウイスコンシン大学医学部がクリニカルサイエンスセンターとして医学教育、大学病院及び臨床癌センターを統合し新医療体制を組織化した際、臨床癌センターの人体腫瘍学科客員教授のポストに招碑された。再度、アメリカで生活することになったが、長女が高等学校を卒業した年でウイスコンシン大学へ入学し、さらにエッジウッドカレッジにも席を置き、教育学を専攻して卒業、教員資格を取得した。これでアメリカの生活が定着できるように思えたが、丁度九州大学薬学部長井口定男教授が福山大学に薬学部を創設する努力をされているときで、そのお手伝いをする機会を項いた。
 昭和五十七年薬学部創立とともに生物薬学科医薬品化学担当教授に就任し、医療薬学を指向した教育が開始された。まだ未完成の研究室、実習室、視聴覚教室、女子寮建設など、施工に追われる日々であったが、その間隙を縫って福山大学硬式野球部部長を引受け、主に経済学部や工学部で選手養成を行い、全国大学選手権へ向けて練習に励んだ。幸い、中国・四国地区で優勝し代表権を獲得して全国へ名を馳せること二度におよび、薬学部女子学生を応援のチアガールに仕立てて明治神宮球場へ出場したのは何よりの思い出である。
 昭和六十年、福山大学薬学部設立が、まだ完成していない時に、長崎大学医学部・薬剤部教授設置の初代教授侯補になってしまった。各方面に御迷惑をかけ、お詫びの気持ちで一杯だったが、現職に就任することが決定し、未練を残しながら福山大学を退職させていただいた(当時五十一才)。教授職の他に薬剤部長を併任すると、外国で研究することが大変不便になる。ウイスコンシン大学臨床癌センターの客員教授を引受けて以来、福山大学時代も併任してきたため、ウイスコンシン大学へ海外出張しなければならないが、三カ月未満に制限されてしまった。切角の機会なので、長崎大学医学部附属病院薬剤部から薬剤師を招き、ウイスコンシン大学病院でクリニカルファーマシーの研修を三週間(有給休暇を使用)受けさせることにした。語学力に難点はあるが、用時助けることでトレーニングに耐え貴重な体験をしているようである。
 九州・山口地区国立大学病院薬剤部対抗ソフトボール大会が毎年開催されているが、わが長崎大学病院薬剤部は優勝の経験がなかった。ここで、また野球狂いが目を覚まし、まずピッチャーを養成、打力チーム指導を行い、昭和六十年薬剤部長就任時から四年連続優勝の偉業を成し遂げた。

略歴
昭和三十三年三月  長崎大字薬学部卒業
昭和四十四年十月  熊本大学薬学部助教授
昭和五十七年四月  福山大学薬学部教授
昭和五十四年十一月 ウイスコンシン大学臨床癌センター客員教授併任
昭和六十年四月   長崎大学医学部教授・薬剤部長併任

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