私が鍼灸師になった理由(わけ)

岡本美佐緒(昭47)

 私は今年,鍼灸院を開業しました。大学卒業以来20年以上勤めた市民病院の薬剤科を辞めてでもやってみたかったのです。
 病院薬剤師としては,結構よく勉強するまじめな薬剤師だったと思います。入局した昭和47年頃はDI活動というのがちょっとしたはやりで,新人の時からDI係となった私は,資料の整理や他院とのDI事例発表会への参加など,得意になって働いていたものです。学生時代に勉強した覚えが殆どなく,あれでよく国家試験に通ったものだと自分でも感心しますが(選択問題だったので,サイコロ代わりの鉛筆の転がり具合いがよかったのでしょう)必要にせまられて生理・病理や薬理を勉強しました。少しずつ理解した知識と目の前にいる患者さんを見た感じを総合すると,その頃の私が絶対的な信頼を寄せていた今の医学ができる事は,ごく一部なのだと思うようになりました。血圧は下げるだけ,高血圧になる体を治してはいません。そんな時,ちょっと安っぽい宣伝文句「漢方は体質を変えます」というフレーズは魅力的に響き,(今はそんなに単純なものではないと思っていますが)いつかは本格的に漢方を勉強してみたいと誓ったのです。
 でもまあ,それは停年後かいつかということで,独身貴族の常,ショッピングだ,海外旅行だ,と浮かれて20代は過ぎようとしていた頃,気まぐれに訪れたパキスタンのフンザへの旅が,私の生活の仕方を変えるきっかけになりました。それまで海外だというとお決まりのパターンで,香港・グアム・ハワイに始まりアメリカ西海岸・ヨーロッパといった所へ行っていましたが,初めての発展途上国といわれる国へのツアーでした。
 カルチャーショックでした。ホテルに風呂のないのは当たり前,お湯の出る所も少ない位。道中トイレの無い所も多いですから,用のある時は車を停めて持ってきた折り畳み傘で陰を作ってそこで……。給油の時はタンクに棒きれをつっこんで量を測る。飲み水に出された水は濁っている。幌の無いジープで20時間走り,ホテルに着いた時には土ぼこりで頭の先から足の先までキナコまぶしの様,黒シャツも白シャツも一様に土色。その時着ていたシャツは,どう洗ってみても,もう日本で着られるようにはなりませんでした。生ぬるいただの水でも砂漠ではどんなに甘露か知りました。
 そこで学んだのは,今の生活の中で何が無くても生きていけるのか,最低何があれば生きていけるのかということでした。それ以後は,行く度に何かを発見する事の多い途上国をもっぱら旅して,とうとうチベットカイラスでは「ナンデモ食える,イツデモ寝られる,ドンナトコデモ糞できる」(汚くてすみません。添乗員だった山男の言葉です)という技を極めたのです。これは後に阪神大震災のとき十分力を発揮しました。そのうちに旅人として通過するだけでなく,その土地に住み,私のできる事で仕事をしたいと思うようになりました。
 31歳の時,やっと薬剤師という職種で募集のあった青年海外協力隊に応募して,地方選抜をパス,面接のため上京までしました。しかし,その頃はまだ肝がすわっていませんでしたから,派遣される2年間のために退職することはどうしてもできませんでした。こうして心の底に不完全燃焼のもやもやが残りました。
 ある日,新聞でネパールに鍼灸の学校を開いてしまった日本女性,畑美奈栄さんのことを知りました。薬剤師は薬という“物”を介在してしか患者さんの役に立つことはできません。旅行中,目の前に頭痛の人がいても鎮痛剤を持っていなければ何もできないのです。でももし鍼灸の技術があり,ハリと灸を身に携えていれば,その頭痛を止めてあげることができるでしょう。これだ!と思いました。早速ネパールの畑さんに会い,エネルギーの塊の様な彼女の話も聞きました。以前から心に温めていた漢方は,鍼灸とともに東洋医学の両輪です。両方を修めることができれば,現在の日本の患者さんにも途上国の人にも役に立てる,奥の深い道ですから生涯を賭けるに足る,定年なんか待っていられないと学校に入ったのが44歳の時でした。3年の学校を終え,鍼灸院と漢方薬局で働くこと1年で今年開業となった訳です。
 鍼灸学校時代の休暇には,念願だったリュック担いだ一人旅で,それぞれ一か月かけてインドネシアの島々,カンボジア・ベトナム・ラオスと廻って来ました。それで“海外に行きたい病" は今のところ納まり,日々患者さんに接しながら「治るという事はどういう事?」「本当の健康な暮らしって?」と考える毎日です。東洋医学は魔法ではありませんので何でも治るという訳にはゆきませんが,その底に流れる考え方に共感を覚えています。まだまだ未熟者の私でも,求められる状況が周りにありますので,当分はこのまま経験を積んでいきたいと思っています。
 病院薬剤師から学生,漢方薬局勤務,鍼灸院勤務それから自営と立ち場が変わると見えてくるものが変わってきました。今はそのことが面白くてたまりませんが,この延長上で又何かみつけてしまったら10年後ここにいないかもしれません。
   みさお鍼灸室
   〒665一0061 宝塚市仁川北2丁目9-34
    Tel 0798-54-9845,Fax 0798一52-1032

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