故杉原剛先生を偲んで

今井 春二(昭25)

 我が長薬同窓会大分支部のみならず大分県薬剤師会においても重鎮であられた杉原剛先生が,平成10年8月2 目に82歳の天寿を全うされて永眠なされました。まさに巨星落つの感があり,誠に哀惜の情ここに極まる次第であります。
 先生は有限会社杉原薬局取締役社長であられましたが,その御経歴を簡潔に辿れば,次の如くであります。昭和13年長崎薬専を卒業後,翌年歩兵第47連隊に入隊し従軍されましたが,終戦の時は陸軍大尉で,戦後昭和21年2月に復員の後,昭和22年7月に大分市で開業されて,昭和36年以降は大分県学校薬剤師会長・大分県薬剤師会副会長・九州リネンサプライ且謦役・吉村薬品且謦役・潟_イヤ取締役社長・大分県薬剤師会長・大分県地方薬事審議会委員・大分県医療機関整備審議会委員・大分県環境衛生センター理事・日本薬剤師会理事・大分県地域保健審議会委員・大分県薬剤師会顧問・大分県インドネシア友好協会副会長等をそれぞれ永年にわたり歴任され,殊に大分県薬剤師会長は10年・日本薬剤師会理事は6年に及び薬剤師会のり-ダーとしてバイタリティー溢れる御活躍をなされました。またこの間,勲6等瑞宝章・日本体育協会長感謝状・九州山口薬学会会頭表彰・大分県知事表彰・厚生大臣表彰・九州山口薬学会会頭感謝状・日本薬剤師会日薬賞・藍綬褒章・文部大臣表彰・勲5等双光旭日章等の数々の叙勲・受章の栄誉に輝いておられます。
 我が長薬同窓会大分支部においても,清水貞知先生・石井重美先生に続き,昭和48年から昭和55年1月に安東喜久男先生に引き継ぐまでの7年間にわたり支部長を務められ,我々の御大として支部の発展のために御尽力なされました。当支部は昭和20年代には20名前後の小世帯でしたが,今や150名を越える程になりました。しかしながら近年に至り,高齢の先輩方が櫛の歯を引くように御逝去されて,薬専卒は7名となり,しかも現在の最高齢者は昭和14年卒の那波勉先輩で,その他は小野島の卒業生のみとなってしまいました。有為転変の世の中とは言え,正に世は無常を感じざるを得ません。
 杉原先生との出会いは,私の卒業の年の春でありました。私は在学中は就職委員をさせられていて学友の世話をしながら自らの就職は遂に定まらずに卒業し帰郷しました。一人息子の私は老父母の元で県内の,しかも通勤可能な所という極めて限られた範囲での就職を余儀なくされて,大分を中心に数箇所の病院を当たってみたのですが,何れも定員一杯で徒労に終わりました。というのも私の性格の上から病院勤務が最適と考えたからなのですが,事ここに至ってはやむを得ず,先輩の杉原先生の門を叩いたわけです。
 先生は既に私の性格をお見通しのようで,「商売は厳しいぞ,君は商売人になり切ることができるか。」といわれ「頑張りますから是非ともお願い致します。」ということで先生の馨咳に接することになりました。当時,先生は“日本精化”という薬品卸業を経営しておられました。私が入社して間もなく社名が“星康薬品”に変わりましたが,私が臼杵市に住んでいることにより臼杵・津久見・佐伯を担当することになり,毎日,前日に注文のあった薬品をリュックサックに詰め込んで配達して翌日の注文を受けるという繰り返しでありました。しかし,成果は芳しくないことが多く,尻を叩かれつつも各地区では暑い盛りに自転車でお得意さんを巡り歩く日々でありました。ところが,8月も終わりに近い頃,春に訪れて駄目だった古田日文先生と千歳進先生の両先輩の勤務しておられる大分県立病院に空席ができたが来ないかと,千歳先生からお誘いがあり,杉原先生に大見得を切った手前から内心では忸怩たるものがあったのですが,意を決して杉原先生に転職の意志を申し上げたわけであります。先生は私の将来を思って下さり,快く退職を許可して戴きました。
 そのお蔭をもって私の天職とも考えていた病院勤務をすることとなり爾来,定年退職までの36年間を真摯に務めあげ,私なりに地域医療に或いは県薬剤師会や病院薬剤師会に微力を尽くすことができましたし,これをもって先生への御恩の一端を報ずることができたと自負しておりますが,この間においても絶えず御薫陶御教示を賜りました。誠に感謝に堪えないところであります。今や先生の温顔を拝することかなわず,哀哭の情,切々として措くあたわざるものがありますが,この上は私の余命ある限り,長薬同窓会大分支部の発展飛翔に貢献することが私の責務であろうかと考えておる次第であります。先生への思い出は数々ありますが,これをもって追悼の言葉と致し,最後に杉原剛先生の御冥福を衷心よりお祈り申し上げて筆を擱きます。合掌

“校歌”について一言

 昨年の同窓会報第37号31頁及び32頁に昭和22年卒の加藤守氏と田崎和之氏両先輩が校歌について貴重な御意見を述べておられますが,私も全く同様の見解をもっており諸手を挙げて賛同する次第です。
 私が例の曲の終わりの異なるものに出会ったのは,昭和60年の佐賀における総会でありました。その会で伝承により歌う年配の人々と楽譜どおりに歌う若い人々とに分かれてしまいました。歌い終わった時に何か味気無く違和感を覚え,別の会に出たのではないかとさえ思いました。
 私は小野島で入学し卒業したのですが,大半の者が苦しくも一面楽しく懐かしい寮生活で,校歌は勿論のこと応援歌などはすべて先輩からの口伝で徹底的に覚え込まされました。それというのも小野島では平和な現代とは格段の相違ある異色の時代に育ち,そのようなことにしか青春の溌刺とした気概を発散するすべのなかった時勢であったとも思われます。当時,上の二クラスには作詩や作曲に長けた方々が数人おられて,四種の新たな歌もできました。私は一年生の当初から応援団に入ったのですが,三年生になって応援団長を仰せつかったこともあって,現在でも歌詞は勿論のことメロディーも完全に記憶しております。最近の卒業生の中には若干ですが,歌詞をみなければ,校歌すら歌い得ない人々も見受けます。誠に残念なことですが,時代の相違でしょうか,はたまた老人の愚痴でしょうか。
 私は尺八吹奏を嗜んでおりますが,邦楽においても,有名な“千鳥の曲”“夕顔”“六段の調”“越後獅子”などは「改定曲」を奏することがありますので,作曲者の瀬戸口藤吉氏には申し訳ないことではありますが,原作はそれとして,私の知り得る範囲で申すならば,その道に詳しいと思われる佐賀の千綿俊夫氏(昭24)にでもお願いして,口伝の曲風に改めて戴きたいものとも考えたりしております。
 田崎氏が言われるように学生の迸る“感情が”“意気が”思いのままに集結した伝統文化であって,原曲の曲終の部分は,いかにも若人らしくなく,力の無い,心もとないメロディーとしか受け取れません。私は“かたくな”なようですが,あくまで口伝のとおりに歌い続ける所存です。
 “秦西の学………”は我々にとって,誇らしく,そして楽しく懐かしく,老いてもなお盛んに歌い続けられる,誠に良い校歌ではありませんか。

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