中国山西省で薬学教育に50余年

山西医科大学教授 楊  丁銘(昭18)

 私は1943年卒です。卒業後,同じクラスの四元保夫,平井千年の両君と共に華北交通に入社,北京で中国山西省太原鉄路病院勤務を知った時,太原はどこにあるかわかりませんでした。当時,まさか私が太原で50余年も生活することになろうとは夢にも思いませんでした。
 戦争が終わって当時,太原にあった桐旭医学専門学校(桐は山西の別称)の薬学科の日本人の教官が全部帰国しました。広い華北地区にはその時,北京と太原に2校しか薬学科がなかったので,薬学教育の為に私は招聘され,已に在学中の薬学科の学生を全部卒業させるまで頑張りました。そのうち戦争の為,太原は包囲され,私も故郷(台湾)へ帰れなくなりました。1950年,この学校は接収されて山西医学院と改称されました。薬学科は教師不足で暫く学生を募集しませんでした。私はその回復に並々ならぬ苦労をしました。やっと1970年末,学生を募集し始め,教師,設備等も一年一年と充実され,今では人口約3500万の山西省唯一の薬学部になりました。卒業生は主に山西省の製薬企業,薬事行政,薬物検定及び研究,開発と,教育部門で活躍しています。この間,母校より河野信助教授(当時同窓会長),北川常広教授,同級生の松尾市郎氏,救心製薬の森田和之氏(昭30)の方々を招待致しました。私も1983年に40年ぶりで母校に帰り,又,母校の創立百周年記念に参加させていただきました。
 母校の庭での園遊会席上では突然の指名で挨拶の栄に浴しましたが,あれから已に8年の星霜を過ごしました。
 山西医学院も昨年山西医科大学と改称され,薬学部は政府より「山西省執業葯師培訓中心」〔日本の薬剤師資格を得る為の国家試験に相当する〕に指定されました。又,山西医科大学に薬学研究所が設置され,私は薬学部教授の名称保留でこの研究所の名誉所長として新薬の研究と開発等に引き続き頑張っています。
 思えば,ここに,もともと薬学科が無かったら,私は別の人生の道を歩んでいたことでしょう。
 中国は発展途上国で,教育・研究費共乏しく,その為研究所も設備は非常に簡素です。
 それで母校の方々のご来訪,御指導と御援助をお願い申し上げます。

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