老いて思いだすまま

谷口 順一(昭10)

 小生が本校に入学を許されて登校を始めたのは昭和7年であるが,学科は修身,ドイツ語,英語,鉱物学,理論化学,定性分析,体操(軍事教練)などであった。実習で,定性分析には必ず使用する硫化水素ガスには参った。「ガス吸うて具合の悪くなった者は申し出なさい」との,深川友吉教授から注意があったが,誰も申し出る学生はいなかった。さすがに化学を志望した面々だからであろうか。
 学校には学友会があって,野球部・ラグビー部・庭球部・バスケット部・弓道部・射撃部・剣道部・柔道部・弁論部・雑誌部などがあって,小生は自分に適していると思って,弓道部と射撃部に入部した。日ならずして,新入弓道部員の歓迎会を旧山里町(現平野町)の民家で開いてもらった。私達新入部員は皆出席したのではなかったろうか,大歓迎であった。閉会ののち,小生宅も近くで旧山里町(現平和町)にあり,帰宅して床に入ったところ天井がグルグル廻るので,何か先輩にたいし悪いことでも言わなかったろうかと心配したのだった。
 昭和7年度時の学年別弓道部員,及び射撃部員諸氏を記憶のまま挙げて見ると
弓道部員
 3年生
 甲斐 保生, 志賀  猛, 芳野 政照, 矢野憲大郎, 横井 宗之
 2年生
 芦苅 末春, 西島 朝喜, 原  正幸
 1年生
 上田英一郎, 大久保 嶽, 副島 恒夫, 浜崎 成之, 山田 忠孝, 山本 亮一, 谷口順一

射撃部員
 3年生
 林  利八, 甲斐 保生, 志賀  猛, 芳野 政照, 松本 一雄, 矢野憲大郎, 横井 宗之
 2年生
 前田 一夫, 原田 安雄
 1年生
 加藤 研志, 徳島 秀男, 北村  勝, 久保 正大, 高水間勘次, 久本 照明, 伊東  武, 目黒  宏, 谷口 順一

 当時わが弓道部は長崎市小島町の鳳鳴館主森田九十郎先生,及び当校大正12年卒清田貞美先生に師事し,当校昭和7年卒富永忠良先輩の督励を受け,3年生甲斐保生部長に率いられて部員一同和気あいあいと講義終了後に弓の道に励んだものだった。
 当大学の中にも2〜3人の学生がバラバラにみえたが口を交わすことは殆どなかった。
 わが校の運動部がそうであったように親善対抗試合いを望んでも,その相手は大抵市内片淵町の長崎高等商業高校(現長大経済学部の前身)が選ばれ,わが弓道部も練習試合相手は長崎高商で毎年7月の日曜日を選んで双方全部員を出場させて立射,両校共,的中数の多い者から10人の的中数の合計を競うのである。
 昭和7年7月当校弓道場で開催,当校が勝利を得た。そのうえ,型にもなっていない小生が当部のベストテンに入っていたことは嬉しかった。
 暑中休暇となった。そして毎日のように当校の弓道部に行き一人静かに弓を引いていた。クラスメイトの中嶋(旧山本)潤平氏が大学附属病院に腹膜炎で入院して苦しんで闘病していることも忘れていたこと,申し訳もなく今ここに深くお詫びする。
 弓に夢中になっている内に,どんなきっかけだったか記憶が定かでないが,甲斐部長の厳父から「コソコソ練習してても仕様がないから俺が街の道場に連れて行ってやろう」と最初の道場はどこだったかは記憶しないが当時市内には武徳殿・三菱会館・鳳鳴館・昭道館があり,毎日曜日を持ち廻り順次に会費(経費・賞品代)持ち寄りで例会が開かれていたのでこれに出席した。そして弓道愛好者を知り,よく賞をもらった。2年生となり7月弓道部を退部した。
 その後は小生に残された部活は射撃だけとなった。射撃は実弾を標的に射込むのであるから校内では出来ない。平常は専門部校舎のすぐ前にある兵器庫から三八式歩兵銃を借りて標的に照準をつけること,息を止めて引き金を握り落とす練習である。また部員一同がそろって練習をすることはなく,毎年秋に九州内の3大学である九州大学・熊本大学・長崎大学が廻り持ちで山口高商を含む全九州の大学・高等学校・専門学校を招いて射撃大会を開いていたので,この大会に参加する前10日間くらい実弾射撃を行うため,代々先輩方が使用してきた小銃を肩に,講義実習の終了後,揃って母校から3kmくらい北西に離れた西町にある大学所有の射撃場に徒歩で向かい,5発の実弾を撃って体に覚え込ますのである。
 昭和8年度の射撃部員諸氏は次の通り
  3年生
  前田 一夫, 原田 安雄
  2年生
  加藤 研志, 徳島 秀男, 北村  勝, 久保 正大, 高水間勘次, 久本 照明, 伊東  武, 目黒  宏, 谷口 順一
  1年生
  松尾  剛 あと記/億なし
 この年の全九州大学高専射撃大会は熊本大学の主催で行われることになり,わが射撃部も出場することになる。前田一夫・原田安雄・徳島秀男・松尾 剛・谷口順一(補欠)の選手らは大島教官に率いられて長崎駅発の夜行列車で出発,翌朝早く熊本駅着,旅館に小銃ほか荷物を置いてタクシーを飛ばして一路阿蘇火山へ,草千里を経て火口西側に到着,車を捨てて登山,暫く登ると急に荒磯に似た音が迫って来たと思ったら火口台地に達した。見れば足下は深い谷底で底は広い平地で向こう側の斜面の近くに直径100米位の穴が開いていて,その下から音と共に白煙を噴いているのだった。その深い崖は遠く南方に細長い瓢たん型に延びていて,第5噴火口まで続き,私達の立っている火口は第1火口とのこと。この私達の立っている足下の火底に頭を下にして「あげまき貝」のような屍体が見えたが噴火ガスの危険があるために屍体を今だに収容できずにいるとのことだった。
 午後旅館に帰着し,静かに明日に備えた。
 一同,朝を迎え,射撃場が熊本市のどこに所在したのか今は記憶がないが,標的距離は200M,弾数は5発,射的制限時間なし。
 全校の射撃は終わったが,わが校の成績は記憶にない。3位までの賞には残念ながら入れなかった。ところが,補欠選手の競射を行うとのこと,小生も参加した。そして成績は3位になり賞品までもらった。中身は毛の冬シャツだった。もしも正選手で出場していたら,賞はもらえなかった筈なので嬉しかった。
 そして小生も最高学年になった。
 昭和9年度の部員は次の通り
  3年生
  加藤 研志, 徳島 秀男, 北村  勝, 久保 正大, 高水間勘次, 久本 照明, 伊東  武, 目黒  宏, 谷口 順一
  2年生
  松尾  剛 あと記憶なし
  1年生
  市川 信夫, 賀古 正夫, 吉良 清之, 古賀 豊次, 田中 高一, 山辺 正人
 昭和9年の全九州大学高専射撃大会はわが長崎医科大学の主催となり,わが薬学専門部も参加することとなる。満を持していた部員一同は練習に励んだ。ところが小生には小学生の頃から視力に難があり,近視,弱視,乱視,2本の水平線が15度くらいの角度で交錯して見える等の弱点をもっているので射撃には不向きなのに練習していたのである。従って実射の際は曇天や夕暮れ時には標的が良く見えないので極力避けることにしていた。この大会の日は快晴だった。その朝の選手は徳島秀男・日黒 宏・松尾 剛・賀古正夫・谷口順一の外,加藤研志・久本照明・北村 勝・田中高市・市川信夫・古賀豊次・山辺正人氏等と学校に集合し,各人愛用の銃を肩に威風堂々と西町の射撃場に向け出発したのだった。背中から浴びる恵みの太陽光線で,悪い小生の眼にも200メートル前方の標的がハッキリ見える。ただ心配なことは,昨年までは射手が-発撃つ度にその-発が何点でどこに命中したかを所定の点数旗と弾痕指示棒で射手及び関係者に示して役立たせて来たのが,このたびは射手が3分以内に5発を撃ち終わった後に点数だけを5発の高点から順次点数旗で知らすことになったため,射手は弾丸がどこに命中してるのかがわからない。従って照準の矯正ができない。ただ平常の自分の照準を信じて発射しなければならないのである。
 小生がいかに太陽を背にして良く見えると言っても左眼で標的を捕らえ右眼で照準するのであるからむずかしい。しかし何とか気持ち良く射撃は出来た。点数も知った。これ以上は無理だったろう。私の愛銃は私一人が使用してほかに使用する人はいなかった。私の愛銃よありがとうと心に謝した。全校選手の射撃は終わった。わが校の優勝が決定し,徳島・谷口の両人が個人賞にも該当するが遠来の選手に渡したいので,辞退してもらえないかとの主催者からの申し出に,両名は速座に承諾した。かくして表彰式で優勝旗を手にし,優勝メダルと賞品を受け,意気揚々と母校に帰ったのであった。
 翌月曜日に出場者揃って,川上登喜二主事に優勝報告と同時に優勝旗を主事室に飾った。

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